ビートルズの後を継ぐアイドル

1968年の秋に、東芝音楽工業の洋楽部に配属された新入社員の石坂敬一(のちのユニバーサルミュージックやワーナーミュージック・ジャパンのCEO)は、アシスタント・ディレクターとして仕事を始めた時、まずは印象に残る日本語のタイトル、邦題を付けることを強く意識した。

「日本の洋楽を確立しなければ」という気持ちが強かった石坂は、英語を日本語に訳すだけではなく、“より魅力的な日本語”に変換することを心掛けた。最初の頃はオリジナルのタイトルを漢字にすることで、メディアの関心をひく方法を試みている。

石坂はその後、ピンク・フロイドの『A Saucerful of Secrets』というアルバムに、『神秘』と名付けて確かな手応えをつかんだ。そこで1970年に発表されたアルバム『Atom Heart Mother』を『原子心母』としたところ、日本の洋楽史に残る記録的なヒットとなり、漢字による邦題で大成功を収めた。

ピンク・フロイドが1970年に発表したアルバム『Atom Heart Mother』のジャケット 写真/Shutterstock
ピンク・フロイドが1970年に発表したアルバム『Atom Heart Mother』のジャケット 写真/Shutterstock

1971年にイギリスで流行り始めていたT・レックスのアルバム『Electric Warrior』を担当した石坂は、ギターを持ったマーク・ボランがかっこ良くシルエットで写っているジャケットを見て、『電気の武士』という邦題のタイトルを思いついた。しかし、語呂も響きもいまひとつと感じたので、それを『電気の武者』にしてみたら「これだ!」という気持ちになり、売り込みにも力が入ったという。

T・レックスを売るにあたっては「グラム・ロック」という言葉を打ち出し、レコード会社の壁を超えてRCAのデヴィッド・ボウイと一緒にキャンペーンを行った。そこにCBS・ソニーのモット・ザ・フープルとポリドールのスレイド、さらに東芝EMIのロキシー・ミュージックも加わった。

当時は日本の洋楽を盛り上げるべく、各社の担当ディレクターたちが互いに情報交換を行いながらプロモーションに励んでいた。さらに石坂は日本のトップアーティストである加藤和彦から協力を得ることができた。加藤はテレビで「毎日聴いて、はまっています」と、T・レックスの「ゲット・イット・オン」を紹介してくれたのだ。

T・レックスのマーク・ボランは石坂から見ると、ファッションとヴィジュアルが音楽と同等のものとなった新しい時代のロック・スターだった。彼らは日本でもすぐに人気に火が点いて、ビートルズの後を継ぐアイドルとして雑誌で取り上げられるようになった。