「僕らの代は、上級生を犠牲にしとるんです」
池田高校の近隣にある池田中の野球部長と懇意にしていた蔦は、試合での橋川の好投について伝え聞いたのだろう。
蔦が橋川にかけた言葉は一つ。「これやるから野球せえ」そして、渡したものは三つ。グローブとバットとボールだった。橋川は舞い上がった。小学六年生の時にテレビで見た、さわやかイレブンのあの人が自分に期待を寄せてくれたのだ。
池田へ入学する意思を固めるには、十分すぎる出来事だった。
橋川の地元、吉野川市(当時・麻植郡)は徳島県の中部に位置する。通学にかかる時間は汽車(気動車)でおよそ1時間20分ほど。自宅から通う場合、練習時間が限られる。その環境が橋川が入る代で変わった。寮ができたのだ。
橋川の代は、池田野球部初の寮となる「大和寮」の第一期生にあたる。県下の遠方に住む中学生が、池田野球部を現実的な選択肢として考えられるようになった。
蔦にとっても有望な生徒を勧誘できる範囲が広がった。池田に集まる生徒の出身地域は、さわやかイレブンの時代は池田町周辺に限られていたのが、橋川の代から徳島中央部まで、そして80年代以降は徳島全域、さらには全国へと広がっていく。
橋川の時代も、依然として多くの部員が途中で辞めていった。入部してレギュラーの見込みがないと判断した部員はたいてい去った。25人が入部しても、一年の夏までに半分に減った。
しかし、橋川のように遠方から入寮した10人ほどの部員は粘り強かった。寮費を親に負担させているぶん、彼らの甲子園への思いは強かったのだ。
橋川は言った。
「僕らの代は、上級生を犠牲にしとるんです」
文/田中仰 写真/shutterstock













