奇跡の日常と、消えない後悔
治療を続けることだけを考え、前だけを見て走り続けてきた家族に、少しずつ「終わり」という言葉が現実味を帯び始める。それでも、青木さんは諦められなかった。
「親だからです。助けられる可能性が少しでもあるなら、そこに懸けたいと思っていました」
治療法を探し、情報を集める日々。海外の症例にも目を通し、わずかな可能性を見つけては希望を抱く。その繰り返しだった。一方で、一馬くんの身体は確実に衰えていった。病室で過ごす時間が増え、自由に動き回ることも難しくなる。それでも看護師の姿が見えると笑顔を見せ、好きだったウルトラマンの話をしようとする。その姿が、かえって青木さんの胸を締めつけた。
「この子は、本当は何を望んでいるんだろう」
その問いに向き合う余裕は、当時の青木さんにはまだなかった。頭の中を占めていたのは、「助ける」という一点だけだったからだ。それが転機となったのは、緩和ケア医・萬田緑平医師との出会いだった。萬田医師は、一馬くんの検査結果や治療経過を確認したあと、青木さん夫妻に静かに問いかけた。
「お父さん、お母さんのお気持ちはよくわかります」
そのうえで、こう続けた。
「でも、本人はどうでしょうか」
これまで医師たちは、「どんな治療をするか」「どんな薬を使うか」を中心に話してきた。けれども萬田医師が見つめていたのは、病気ではなく、一馬くん自身だった。
「本人の希望に、全力で応えてあげる時期じゃないですか」
その一言が、青木さんの胸に突き刺さった。助けたい、生きていてほしいという願いは親として当然のもの。しかし、それはいつしか親の願い「だけ」になってはいなかったか。青木さんは吐露する。
「自分自身、作業療法士や介護など医療現場に長らく携わって、患者さんの死にも携わってきていて、家族の気持ちになったりしていた。でも、全然違いました。
『家族は、長く生きてほしいのはわかるけれど、本人がおうちに帰りたがっているんだから、帰してあげればいいのに』って思っていたんですよ。だけどそんな簡単なことじゃなかった」
「家に帰りたい」。一馬くんは、何度もそう訴えていた。友だちに会いたい、保育園へ行きたい、家族4人で過ごしたい。時間は限られているかもしれない、その時間を誰のために使うのか。それは、「どうすれば助かるか」という問いではなく、「どう生きるか」という問いだった。夫婦で何度も話し合い、迷い、涙を流した末、一つの決断を下す。一馬くんを、自宅へ連れて帰る、と。
「一馬、もう病院に来なくてもいいって。どうしたい?」
青木さんがそう尋ねると、一馬くんは間髪容れずに答えた。
「お家に帰る!」
その言葉を聞いた瞬間、青木さん夫妻は覚悟を決めた。
治療を続けることではなく、一馬くんの願いを叶えることを最優先にしよう――そう決意したのだ。
家へ帰ると、不思議なことが起きた。病院ではほとんど何も食べられなかった一馬くんが、開口一番、「お腹すいた」と言ったのだ。大好きだったエビフライを頬張り、納豆ご飯を平らげた。抗がん剤をやめたら、すぐに状態が悪くなるかも知れない――不安を抱えながら退院した家族にとって、その姿は奇跡のように映った。
体力も少しずつ戻り、おもちゃ屋へ出かけたり、ゲームを楽しんだり、妹・優里南(ゆりな)ちゃんの保育園の運動会にも足を運ぶことができた。そして何より、家族4人で食卓を囲み、夜になると川の字になって眠る。病院では叶えられなかった、ごく当たり前の日常。青木さんは、「涙が出るほど幸せで、尊い時間でした」と振り返る。
しかし、青木さんには今も、後悔がある。それは、一馬くんの「旅立つタイミング」を引き留めてしまったことだ。亡くなる2日前の夜のこと。駆けつけた親族一人ひとりに「大好き」を伝え終えた一馬くんは、ゆっくりと意識を失い始めた。
「今、振り返れば、あれが本人にとって自然な別れの時だったのかも知れない」
しかし青木さんは、「まだ逝かないで」と必死に声をかけ続け、好きだったウルトラマンの動画を最大音量にまで上げて流し、身体を揺すり、一馬くんを眠りから呼び戻した。
その願いは叶った。
一馬くんは再び目を開け、1日あまり命をつないだ。けれども、その時間は、想像を絶する痛みとの闘いだった。「もうだめだ、もうだめだ」。4歳の小さな声が、何度も部屋に響いた。
「あの1日は、一馬のためではなく、自分のためだったのではないか。それを今も後悔しています」
青木さんの後悔はもう一つある。それは、「ありがとう」を伝えきれなかったことだ。
「パパとママのところへ生まれてきてくれてありがとう」――その言葉を口にしてしまうと、本当に別れが来てしまう気がしたのだ。
「ありがとうって、もっと早く伝えればよかった」
一馬くんが4歳で駆け抜けた人生。そこで得た深い喪失と気づきが、後に多くの付き添い家族を救う活動へと繋がっていくことになる。
取材・文/加賀直樹
(写真/青木佑太さん提供)













