親友なんてものは絶対に作ってはいけない。

アイツとは互いに理解し合っているなどという発想は人を確実に駄目にする。第一、自分のことを理解しているのは自分だけだ。このことについては、余命宣告を受けていよいよ確信を深めた。

死に向き合うのは孤独な作業だ。私にとっては一人で考える孤独な時間がありがたいのだが、いずれにしても誰かと共有したところで意味がないのだ。

一人で死んでいくことが怖くなってしまうかもしれない。

また、老後生活に入ってから、現役時代の友人関係を引っ張り続けるのも最悪の選択だ。一緒に飲みに行こう、一緒にゴルフに行こうという誘いに応じていると、どんどん老後資金を食いつぶすし、何より自由な時間を奪われてしまうからだ。

その意味で私は、人はどんどん一人になる訓練をしていかなければいけないと思う。

もとより人は、一人で生まれて一人で死んでいくのだから。

「ただ一人、妻だけが私を“キモイ”と言わなかった」余命宣告された森永卓郎氏が身辺整理で見せた妻への愛_1
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がんになって変わったこと

仲間も友達もいない私にとっての唯一の人間関係が家族だ。

結婚したのは専売公社時代の1983年、私が25歳、妻が23歳の時だった。入社してすぐに、主計課という予算配分を握る部署に配属されて天狗になっていた私は、関東支社の予算課から「森永さん、忘年会をやるので参加していただけませんか」と誘われた。官官接待というやつだ。その時、思いあがっていた私は「行ってもいいけど、女連れて来いよな」と言った。

果たして関東支社は、予算課に勤める若い女性を連れて来た。それが妻だった。そのため、妻は「私は人身御供にされた」と言い続けた。

私のプロポーズを受けてくれた理由として「怒らないから」というのがあったようだ。

確かに私は感情的になって怒ることはない。いや、正確に言えばほとんどない。ここだけ切り取れば善き夫のようだが、妻は「とんでもない!」と言うだろう。私は究極の仕事人間で、家のことには無関心だった。

二人でいたうちはまだしも、子供ができてからが問題で、ワンオペ育児を強いられた妻は不満を募らせていたのだ。

いつしか妻からは「赤の他人」扱いされ、子供達は「我が家は母子家庭」だと言い始め、合意形成をとられていたこともあった。

テレビに出るようになってからは、人様に批判されるような仕事をしていると認識していたのだろう。家族で外出する時には変装して、しかも時間差で行動するよう指示されていたほどだ。