10年ぶりに再会した母は息子である自分のことがわからなかった…児童養護施設出身ボクサー・苗村修悟が“平成のKOキング”坂本博之のジムに入るまで
畑山隆則氏との熱戦でも知られ、“平成のKOキング”と呼ばれた坂本博之氏の愛弟子、苗村修悟が躍進を続けている。苗村は坂本氏と同じ児童養護施設出身のボクサーで、練習を本格的に始めたのは23歳の叩き上げだ。幼少期からこれまでの軌跡について話を聞いた。(前後編の前編)
児童養護施設から狙う王者への道#1
坂本会長に生まれて初めてほめられた
児童養護施設出身のボクサーとして知られた坂本博之氏(現SRSボクシングジム会長)は、引退後に全国の施設を訪れ、子どもたちとの交流を通じて支援を続けている。時にはミット打ちで子どもたちのさまざまな思いを受け止める。
かつて千葉県の施設を訪れたとき、同行してミットを持っていた元プロボクサーが「この子パンチありますよ」と声を掛けてきた。坂本氏もパンチを受けると、確かに並外れた力があった。坂本氏は振り返る。
「正確には覚えていないんだけど、俺そのとき名刺を渡したみたいなんだよね。普段はそんなことしないから、何か特別な素質を感じたのかもしれないね」
名刺を受け取った少年の名前は苗村修悟といった。まだ小学6年生だった。苗村の方ははっきりとその日のことを覚えている。

小学校5年生の頃、施設のクリスマス会での苗村選手
「当時の自分は心が荒れていて、施設の環境や人たちが嫌で嫌で仕方なかったんですよ。だから児童養護施設出身の元ボクサーが来るって聞いたときも、どうせおっかない人が来るんだろうなと身構えていたんです。ええ、現役時代の坂本会長のことは知りませんでした。
でも、実際に会うとすごい優しくて、オーラがあって、ボクシングもすげえ楽しくて。こんな人になりたいなって」
記憶が鮮明なのにはもう一つ理由があった。
「自分、ほめられたことなんて生まれてからその時まで1回もなかったんですよ。でも、あの日パンチが強いってほめてくれて、すげえ嬉しかったんです。『ボクシングしたかったら俺のところにおいで』って言ってくれて、そういう、誰かから誘われる経験も初めてだったから、すげえ嬉しくて、いろんな感情がそのときぶわっと芽生えて」
母の笑顔は見たことがない
苗村は生まれてまもなく乳児院に預けられ、2歳の頃に千葉県の児童養護施設に移った。父の記憶はない。祖父とふたり暮らしの母とは、小学校低学年のとき、夏休みや冬休みに数日間だけ会っていた。
「でも、お母さんとはそれまで何年も離れて暮らしていましたし、一緒に行った兄も自分も懐かないんですよ。そしたら気に障ったのか、お母さんは自分たち兄弟の背中を叩いてきたりして」
母は精神が不安定になると包丁を振り回すこともあった。もっと幼いころ、施設の職員に「どうして僕はお母さんと暮らせないの?」と尋ねると、「お母さんは病気だから暮らせないんだ」とだけ返答されたことを、苗村はずっと覚えている。
小学校高学年になるころには母とは会わなくなった。母の笑顔を見たり、何気ない会話を交わしたりすることはついに一度もなかった。そして苗村自身の心も、そのころから崩れていった。

小学校、中学校、高校と剣道部に所属していた
「施設には親から虐待を受けていた子たちが少なくないんですよ。だから人と人とのコミュニケーションが上手ではない子もいて、暴力が当たり前になっても仕方ないところがあるんですよね。当時の自分も自暴自棄で心が荒んでいたこともあって、施設内の人間関係に苦しんでいました」
中学卒業後には就職して施設を出る予定だった。しかし施設の先生が苗村を説得し、園長先生に話を通してくれた。
「早く出たかったし、『社会に出たら気に食わない奴がいたらぶっ飛ばしてやる』と周囲に言ってたんです。そういう自分を見かねた先生が、このままだと路頭に迷うと心配してくれたんだと思います。『こいつを高校にどうか行かせてやってください』と、目の前で園長先生に頭下げてくれて。こんな自分のためにそんなことしてくれる大人がいるんだと、すごく驚きました」
母と再会も自分たちに気付かなかった
高校は地元千葉の定時制に通った。眉毛をすべて剃り、頭に“そり込み”を入れていた苗村は全日制の先輩に目をつけられて、毎日喧嘩を売られた。
「30人くらいの激ヤバそうな集団に呼ばれたときは、ああもうこれはやられると覚悟しました。でも、施設の先輩から『一般家庭の奴らに舐められるんじゃねえぞ』と教わっていたんで、僕も全日制の先輩を必死に睨み返して。心の中では『うわあ、おっかねえ』て思う一方で、一般家庭で育った人たちや社会に対して何クソっていう」
高2のとき、祖父の葬儀で母親と約10年ぶり再会した。喪主であった母を見つけ、「あ、お母さんだ」と思った。目の前に立って話しかけようとしたそのとき、母は苗村に向かって「父のためにありがとうございます」と頭を下げた。
「ああ、お母さん自分のこと気付いてないんだなって。何も言えなかったです。別に憎しみとか変な感情はないですよ。一緒にいた兄とも『俺たちのこと気付いてなかったよな』ってだけ話して、結局自分たちから名乗ることはしませんでした」

高校卒業時の写真
頭を下げてくれた施設の職員の気持ちを踏みにじりたくないと、高校は真面目に通って無事卒業した。卒業後は、千葉の水産加工会社に就職する。住まいは会社の寮として用意された一軒家にひとりだった。
「それまで16年間暮らしていた施設内は80人くらいいて、4人の相部屋でした。施設ではひとりの時間って基本ないんですよ。生活音がまったくない環境に慣れるまで時間がかかって、仕事後は真っ直ぐ寮に帰りたくないから、毎日施設の同級生を夕食に誘ってました」
しかし18歳で就職したその職場は、理不尽な体験から2年ほどで辞めてしまう。
「逃げ出した自分も今となってはよくなかったと思っています。でも、そのときはちょっと施設出身を馬鹿にするような言い方をされたのが許せなくて」
仕事を辞めてふらふらしていた頃、元職場の先輩から電話があった。その先輩には、12歳のとき施設でもらってからずっと財布に入れて大事にしていた名刺を見せて、「坂本博之さんにジムに来いと誘われたことがある」と、自慢したことがあった。
「何もしていない自分を心配して、『お前、坂本さんのところでボクシングやりたいって言ってただろ』って。勇気がなくて迷ってるんだったら、俺が間に入って連れて行ってやるからって。その先輩、坂本会長とは何のつながりも面識もなかったのに、自分と一緒にジムに入って、『こいつをよろしくお願いします』って頭下げてくださったんです」
ここでもまた、高校入学のとき同様、自分の代わりに頭を下げてくれる人がいた。ただ、児童養護施設で初めて会ったミット打ちから、8年が経っていた。覚えてくれているだろうかと心配だったが、苗村と再会した坂本氏は、施設名を伝えると「おお、あの時の子か!」とすぐに思い出してくれた。
まもなく、苗村はジムがある都内の西日暮里に住居を移す。ところが転居後すぐにジムに入会したものの、2ヵ月もしないうちに、職場を辞めたときと同様にまた姿を消してしまった。
こうしてふと、ジムに教え子が突然来なくなる経験は何度もある。坂本氏はただ待った。

#2へつづく
取材・文/田中雅大 撮影/石原麻里絵(fort)
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