「思いやり」にとどまらず、その先の「施策」へ

LGBTQに関して「自分は口説くわけじゃないから、何も気にしない」が問題な理由_1
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あるLGBTQについての講演で、思いやり「だけ」では解決しないことや、「何も気にしない」がなぜ問題であるかについて、カミングアウトやアウティングに絡めながら話したことがありました。その講演の終了後に、こう言われたことがあります。

「こっちも別に飲み会で口説くわけじゃあないんだし、別に誰を好きでも関係ないんじゃない?」

講演では、「何も気にしない」ことに潜む問題についても話をしたつもりなのですが、どういうわけか、「だから特別なことは何もしなくていいじゃない」と脳内変換されてしまったようです。

その場では「カミングアウトすると差別やハラスメントの懸念があるから大変」などの説明を尽くし、だから日常会話にも困難があることを改めて話しました。すると、その人から最後に出てきたのは「でも確かに、(カミングアウトできないことを背景に)嘘を吐かれるのは困るなあ。いろいろ考えてみます」という一言でした。

結局自分がどう関わり、どう不利益を被らないようにするか、ということにしか興味がないのかと、ちょっと落胆したのですが、これは「自分ごと」にならない限りはどうでもいい、ということかもしれません。その人が個人的に「嘘を吐かれるのは困る」というのであれば、ぜひその先にまで掘り下げてもらえればと期待するところです。

他方で、その人の場合、特に課題を感じるのは、「たいしたことないから大丈夫なんじゃない?」という安易さを感じさせるところです。こういう反応がくると、「本当にその大変さが分かっていて〝大丈夫〟だと言っていますか?」「適当に“大丈夫〟だと言っていませんか?」と突っ込んでみたくなります。

相手の置かれている状況を的確に把握し、アドバイスするというのは、なにもこの課題に限りません。丁寧に課題に向き合おうとすれば、専門職でなくても、必要不可欠なことのはずです。逆に言えば、「たいしたことないから大丈夫」というのは、丁寧に課題に向き合う気がない、ということの表明にも思えてしまいます。つまり「なんか面倒くさそうだから、とりあえず大丈夫って言っとこう」みたいな感じでしょうか。

とはいえ、答えの見えない謎解きに、みんながみんなチャレンジできるかといえば、必ずしもそうではないのかもしれません。だからこそ答えが見えない「なんか面倒くさそう」なことに挑むよりも、「たいしたことないから大丈夫」となってしまうことは、致し方ないとは言いたくありませんが、そうなる人がいることは分からなくもありません。

思いやり「だけ」にとどまってしまうのも、もしかしたら似たような構造なのかもしれません。思いやり以上に何をすればよいかということが必ずしも明らかでなく、そのモヤモヤした謎解きにまで突入したくないので、「思いやり」と述べるにとどまるのかもしれません。

こういう安易な結論に至らないようにするためには、私たち施策を推進する側としてもひと工夫が必要になります。

このような時、誰でも一定程度対応できる「施策」というものが登場するのではないでしょうか。マニュアル化された対応、トラブルに対する規定や制度などは、全員がその課題のスペシャリストでなくとも、ある程度の水準の対応をする上で不可欠なものであるはずです。加えて、今回紹介したケースのように、関心が深まるよう、その人にとって「利益」になることを示すのも、注意は必要ですが、効果があることなのでしょう。

もちろんマニュアル化されたがゆえに、マニュアル以上のことができない人が出てくるという問題はあります。柔軟に対応できない/しない、自分で考えることをしない担当者による弊害も、他の課題ではよく聞くところです。

しかし、LGBTQの課題は、マニュアル化にすら至っていないところにあります。一部の人の職人芸のような取り組みはあるけれど、それ以外の人はマニュアルすらないので、「思いやり」にとどまってしまっているのではないか、というのが本文の問題意識です。