『ギフテッド』は「音フェチ小説」という面もあるんです

鈴木涼美さんは大学在学中から夜の街で働き、AV女優としてもデビュー。
その後、日経新聞の記者を経て、フリーとなったのちはアカデミズムから書評、エッセイなど多様なテキストを世に送る作家、コラムニストとして活動してきた。
『ギフテッド』はそうした鈴木さんの処女小説である。
物語の主人公は夜の街に暮らす女性。彼女の身体には、母がつけた傷があった。そしてその傷は、夜の街ではある特別な意味を持っていた――

――金属のドアの軋む音ではじまって、静かな言葉で終わる物語。すごくかっこよかったです。

ありがとうございます!

「繁華街で女性の体をもって生きることについて、生涯をかけて考えていくことになるのだろう」―鈴木涼美『ギフテッド』に寄せて_1

――主人公は、自分の部屋にいてさえどこか現実感が乏しい。そうしたときに「扉と鍵の音がうまく鳴れば、少し安心感がある」と言う。身体的な「リアル」を感じさせるのが性や食ではなく、音なんですね。

自分自身が歌舞伎町の近くで暮らしていたことは過去に何回かあるんです。そのときは、たとえば実家から学校に毎日通っていた高校生のときや、新聞記者をやっていたときと比べて「自分が社会の中にいる」みたいな現実感が、なにかふわふわして希薄だったりしたんです。なんだか地面から5センチぐらい浮いて生活しているような感覚で。

そうしたときに「ここに生々しい肉体があるんだ」と感じさせる要素として、セックスや食を求めるという場合もあると思いますけど、でもふわふわした毎日の中で「ここだけは現実感を感じられる」というものって、意外と音なのかもしれない。ドアの音や鍵の締まる音とか、そういうものだったりするのかなと。

だから『ギフテッド』は「音フェチ小説」という面もありまして。ヒールの音とか、ドアを押したときに鳴る「ぎいっ」という音を書き込んでいます。そうした音に耳を澄まして暮らしている様子からも、夜の街にいるとき独特の、社会と自分がぎりぎりでつながってる感覚が表現できたらいいなと考えていました。

――登場人物が持つ「この身体には値段がつくか、つくとしたらいくらか」みたいな目線からも、彼女たちが暮らす世界のリアリズムが伝わってきました。

そうですね。『「AV女優」の社会学』以来、夜の街について書いてきたものもそうだし、男女のことを扱ったエッセーなどで書いてきたこともそうなのですが、私はたぶん、夜の街の魅力や残酷さ、あるいはその街の中で女性の体をもって生きることについて、生涯をかけて考えていくことになるのだろうと思うんです。

自分の身体に、ある人は意識的に、ある人は抵抗しようと思ってもなかば強制的に、ある人は無自覚に、値札が貼りつけられる。歓楽街の中であれば、それがより露骨に行われていて、ほかの社会よりもくっきり浮かび上がる。
「この人はいくらぐらい」といった価値観が自分の中で内面化してく感覚は、私自身が執筆者としてつき合ってるひとつの大きなテーマなので、それが最初の中編小説には色濃く出ているところはあるのかなと思います。

――主人公の女性も、常に自分の身体の持つ価値と向き合っていて。

肉体が価値を持ってしまう、あるいは「価値を持つ肉体とはどういうものか」を知ってしまった女の人たちは、それが商品化される現場に引き込まれていってしまう。
その流れにあらがうことはなかなか難しくて、ある意味、不可能なんだという小さな絶望、というとネガティブなワード過ぎますけど、そうした"受容の気持ち"が私の中にあるんです。

小説では、わりとプライドの高かった主人公の母親ですら、自分の身体に値段がつけられることに、あらがい切れなかった。もし女の身体が値札から逃れることができるとしたら、それは言葉や倫理とかではなく、意外と他者から見るとネガティブに思えるような事情であったり、身体に刻まれたなにかだったりすることもあり得る。

主人公の女の子も、歓楽街で生活しながらあるところでとどまっていることができたのは、たまたま「女の身体の商品価値」にかかわるような痕が刻まれていたためでした。
それは母親のまちがった愛情の表現として残されたものだったのですが、その「ギフト」が与えられていたから、裸になるような仕事からはうまいこと距離を置いて生きることができていた。女の身体が商品価値を持つという界隈にある、そうした逆説的な事情を示すことができたらいいなと考えていました。

「繁華街で女性の体をもって生きることについて、生涯をかけて考えていくことになるのだろう」―鈴木涼美『ギフテッド』に寄せて_2