小沢一郎氏を激怒させたモノ言う長官

羽毛田信吾氏(80)は1942年、山口県川上村(現萩市)に生まれる。京都大学を卒業後、当時の厚生省(現・厚生労働省)の事務次官を経て、2001年に宮内庁次長、05年から12年まで長官、20年まで天皇家の相談役である参与を務めた。昭和館は戦中・戦後の国民生活上の労苦についての歴史的資料・情報を収集、保存、展示し、後世の人々にその労苦を知る機会を提供する施設として、1999年に開館した。羽毛田氏は13年からそこの館長を務めている。

今年の夏で、戦後は77年目に至りました。毎年、8月15日に日本武道館で執り行われる戦没者追悼式。この追悼式に出席され、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願う――と「おことば」をのべる天皇陛下の姿をニュースなどで目にしたことのある人は多いでしょう。

私は、厚生労働省を経て2001年から宮内庁に行き、宮内庁長官として退官した12年までの11年間、当時の両陛下(現・上皇さま・上皇后さま)にお仕えしました。

「犠牲になるのはいつも庶民」。上皇に11年間仕えた、モノ言う元長官の語る戦後史_1
羽毛田信吾氏(撮影:廣瀬和子)

上皇さまが何度も口にされ、願っていたのは、「戦争の記憶を風化させない」ということです。上皇さまは1933(昭和8)年生まれの88歳。上皇后さまは34(昭和9)年生まれの87歳。ともに疎開体験をお持ちで、焼け野原になった東京の姿を目の当たりにされました。それだけに、記憶が風化することに強い懸念を抱いておられました。

穏やかな佇まいの羽毛田氏だが、宮内庁長官時代は大物政治家や皇族にも諫言できる“モノ言う長官”として知られていた。印象深いのは2009年の中国の習近平国家副主席との天皇特例会見だ。民主党政権が中国側の要望を汲み、特例の形で習副主席と天皇の会見を実現させた。このとき羽毛田氏は「政治との中立性を保つのが皇室の原理原則。今後二度とあってほしくない」と猛然と官邸のやり方に異を唱えた。当時の民主党の小沢一郎幹事長が「内閣の一部局の一役人が」と激怒するも、引かなかった。

しかし戦後77年も経って、戦争を体験した世代の多くは亡くなり、その悲惨さを子どもたちが直に聞く機会が失われつつあります。