写真を撮る者のことをカメラマンといったり写真家といったりする。あるいはフォトグラファーという言い方もある。あくまで日本での話だ(そもそも、英語ではPhotographerと書く)。その使い分けは普段何気なく行われているが、それぞれに微妙に意味合いが違う。一般的に使われるカメラマンという言葉自体が英語ではなく造語、つまり日本語だ。私の場合、普段はカメラマンと名乗ることが多い。
例えば書籍や雑誌の編集者のところに電話をかけるときは必ず、「カメラマンの小林です」と名乗る。長年そうしてきたので、自然と口をつく。けっしてフォトグラファーや写真家と名乗ることはない。どうしてだろうか。長くアサイメントの仕事を中心としてきたからだ。では、この三つの呼称は具体的にどう使い分けられているのか。
カメラマンとは多くの場合、アサイメントの場面で使われる。フリーカメラマンという言葉もあるが、それもまたアサイメントの仕事を中心に撮る者を指すことが多い。さらに新聞社や雑誌社の社員、契約社員などもそう呼ばれる。少なくとも、写真家と呼ぶことはまずない。私がかつて所属していた新聞社でも同じだ。社員カメラマンを略して社カメと呼ぶこともある。
新聞社では、記者から撮影を依頼する撮影依頼伝票というものがまず写真部に来る。記者が必要に応じてそれを出すのだ。集まった伝票を写真部長がカメラマンに振り分ける。つまり、かなり受け身なのだ。
自分が持っているテーマや思考に沿ってオリジナル性の高い写真を撮るというよりも、依頼されたものを与えられた時間内に、記者の目的に沿って撮るといっていい。だから、自分のオリジナリティを封印して撮ることもある。
カメラマン、写真家、フォトグラファーの違いとは何か?
写真に携わるようになって30年以上の著者が「撮る者」として、「カメラマン」「写真家」「フォトグラファー」の違いを考える。『写真はわからない 撮る・読む・伝える――「体験的」写真論』(光文社)から一部抜粋・再構成してお届けする。
「カメラマン」はアサイメントの仕事を中心に撮る者
「写真家」は「作品」として写真を撮る者
それに対して写真家は多くの場合、作家性の高い写真を撮る者をそう呼ぶ。写真作家という言葉が使われることもある。いわゆる「作品」として写真を撮る者をこう呼ぶと考えてもらって間違いない。ちなみに私にとって、あるいは同世代にとって写真家のイメージは、かつてとても恐れ多いものだった。土門拳や木村伊兵衛といった著名な方を指すものだとずっと思っていた。
だから私が20代の頃、自分の世代が写真家と名乗ることは絶対になかった。
写真家は、基本的には「自分発」である。自分の思考、想像力を駆使してどこへ行って何を撮影するのか、どんな方法でそれを行うのか、どう発表するのかを考える。カメラマンが撮る写真に対して、より本人のオリジナリティ、思考、思索などが反映されている写真といってもいい。
写真家と呼ばれる者の多くは、組織などに属していないことが多いのも特徴だ。ただし、写真教育に携わりながら作品を撮っている写真家は一定数いる(作品だけでは生活できないという意味でも)。
誤解してほしくないのは、どちらが優れているとか劣っているなどということは一切ないということだ。単純に得意分野の違い、志向、嗜好、思考、ライフスタイルなどを含めた選択の違いといえるだろう。
「フォトグラファー」はカメラマンと写真家のあいだ
では、フォトグラファーとはどんな写真を撮る者を指すのか。簡単に言えばカメラマンと写真家のあいだといっていいだろう。下記のように右側の丸をカメラマン、左の丸を写真家としたら、その真ん中の交わるところがフォトグラファーといえるのではないか。

フォトグラファーという呼称が日本で使われるようになったのは、ここ20年ほどのことだ。少なくとも私が20代の頃に、自らをフォトグラファーと名乗っている人に会った記憶はない。ほとんどの者がカメラマンと名乗っていた。つまり2000年代以降ということになる(本書ではフォトグラファーを「写真を撮る者」という広い意味で用いる)。
40歳を過ぎた頃、自分より10歳ほど若い人から電話がかかってきたとき、「フォトグラファーの〇〇です」と名乗ったのを聞いて、ジェネレーションギャップを感じたものだ。
いまの日本では純粋に作品だけ撮っている写真家と呼べる人は本当に少ない。海外には作品だけを撮ってそれを売買して生活している写真家が存在する(ただし、これもかなり限られている)。逆に言えば、日本は雑誌、広告などのメディアが多く、アサイメントの仕事をしつつ、一方で自分の作品を作っている者が多いのが特徴だ。両輪スタイルだ。考えようによっては恵まれた環境といえる。
私もその中に入るだろう。これはとても日本的な特徴だ。
「『写真家』ってさ自分で言って恥ずかしいよね」
アサイメントの仕事で稼いだお金を作品制作のために注ぎ込むのだ。
作品だけで利益が出ることはほぼない。最初から、そのことはわかっている。それでも、撮りたいから撮るという単純な話だ。
ただ日本の写真界全体を見回してみると、そのような両輪スタイルの者はかなり少ない。写真を生業としている者のほとんどはカメラマンに当てはまる。つまり依頼された写真を需要に応えて撮る人たちが大半である。もちろんそこには競争が常にあるから、おちおちしていられない。
ちなみに最近、興味深い記事を見つけた(雑誌『写真』創刊号、ふげん社、2022年1月)。写真家の森山大道と同じく写真家の北島敬三の対談だ。北島は、かつて森山が「(略)カメラマンという言い方にこだわって、むしろ作家という言い方を忌避していたのかなと」感じていたと発言する。
それに対し森山は「だって『カメラマン』でいいでしょ。『写真家』ってさ自分で言って恥ずかしいよね。(略)『カメラマン』のどこが悪いのって感じだよね。俺は今もまったく変わっていないの」と答える。現在の日本写真界で、写真家という呼び方が最もふさわしいと感じる一人である森山の発言だけに、興味深い。
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