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「上司の立場も威厳もあったものではないですよ!」

「まさか32歳の部下から指示を出されるようになるとは想像もしていませんでした。相手は年下の上司でも他の部署の若手社員でもありません。正真正銘、直属の年下の部下から、ネット通販の業務について『こうしてください』と具体的に指示されたんです」

日用品メーカーに勤務する鈴木康夫さん(仮名)が自嘲気味に発したこの言葉を、私は今でもよく覚えています。鈴木さんは40代後半で、営業担当の中間管理職でした。

コロナ禍前のことです。鈴木さんが勤務する会社では自社商品のネット通販を始めました。

事業を所管することになったのは鈴木さんの所属する営業部門でした。

鈴木さんたちは、専門技術や知識、経験を持つ人材が社内にいなかったので、ホームページのデザインから制作、運営管理、販売実績・顧客の分析まで、一連のネット通販業務を代行してくれる企業に外注しました。

しかし鈴木さんたちは代行サービス会社を指示通り動かすのに四苦八苦しました。鈴木さんたちに技術や知識が無いためうまく意思疎通できず、意図が十分に伝わらなかったのです。ホームページのデザインを修正してもらうのにも苦労したほどで、ましてや代行サービス会社の運営管理や分析手法に注文をつけることなど到底できませんでした。

そこで鈴木さんの会社では、ネット通販の起ち上げ・運営経験がある30代初めの社員を中途で採用し、鈴木さんの部署に配属させました。彼女はもともとIT(情報技術)のエンジニアで、SE(システムエンジニア)の経験もあります。

彼女は代行サービス会社の運営管理や分析手法を点検し、やがて上司である鈴木さんに「代行サービス会社との交渉でこう言うように」と指示を出すようになりました。

鈴木さんはコンピューターやITの知識がほとんどありません。ネット通販事業の経験もまだ十分とは言えません。そのため彼女の指示が的確かどうかわからなくても、指示通りにするしかありませんでした。

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「上司の立場も威厳もあったものではないですよ。昔はこれでも若手から尊敬され手本にされていたんです。新人や若手が入ってきたら取引先に連れていって営業や交渉の現場を実地に見せて、仕事を覚えてもらいました。『俺の背中を見て仕事を覚えろ』ですね。それが今ではインターネットが当たり前になったために、仕事の内容や進め方がすっかり様変わりして、これまでの知識や経験が通用しない場面だらけになってしまいました」

「インターネットやコンピューターについての社内研修は無かったのですか」

私はそう鈴木さんに聞きました。

「ありませんね。うちの会社はあまり研修に熱心ではなく、仕事に必要な知識や技術はOJT(On-the-Job Training=職場内訓練)で学ぶのが中心でした。実地で体験させ、覚え込ませてきたのです。もっともOJTは基本的には先輩社員が過去に積み重ねてきた知識や技術、体験を学ぶ教育法ですから、インターネットを使う新しい業務や仕事について学ぶのには適していませんよね。そこで経営陣も最近、外部の専門家を招いた社内研修の必要性を意識し始めているようですが、研修に割かれる時間やコストを考えるとなかなか実施に踏み切れないようです」

「もしインターネットやコンピューターについての研修が開催されたら、鈴木さんは積極的に参加したいですか?」

「参加したいですね。この年になってコンピューターやITについて勉強するのは正直、しんどそうで、面倒にも感じられますが、勉強できるものならしてみたい気持ちもあります。ただ会社が本当に研修会を開いてくれるかどうか。これまでも何度かそんな話が出て、結局は立ち消えになったんですよ」

鈴木さんはそう言って苦笑を浮かべました。

このエピソードを読んで、第1章冒頭の田中さんの話と同じように、身につまされた人は少なくないと思います。もしかしたら鈴木さんのような上司あるいは同僚が近くにいらっしゃったり、あなた自身がそうであったりするかもしれません。

鈴木さんは「うちの会社はあまり研修に熱心ではなく、仕事に必要な知識や技術はOJTで学ぶのが中心でした」と言いました。

このような企業は日本では多数派です。日本企業の社員教育はOJTが中心で、OFF JT(Off the-Job Training=職場外訓練)と呼ぶ、業務を離れた研修の実施については欧米企業に比べて消極的なのです。