「尊厳を守るための暴力」も否定するのか
ブレイディ 前の新書(『アナキズム入門』)でも思ったけど、森さんはやっぱり先生ですよね。教え方がすごく上手。「暴力」というテーマを、とてもわかりやすく整理されていて、見事に新書らしい本になっていると思いました。
森 ありがとうございます。
ブレイディ 本の「あとがき」で執筆のきっかけを語っているじゃないですか。「ゆるふわアナキズム」に対する違和感という部分を読んで、森さんの意識がどこにあるのかわかった気がしました。
森 最近は非暴力でお行儀がよいデモこそがアナキズムだ、みたいな言説が流行って、そこには僕の責任もあると思うんですけど、「本当は『ゆるふわ』なだけじゃないだろう」っていうことなんですよね。
ブレイディ イギリスから見ていると、今の日本は「暴力」という言葉が氾濫しているように感じます。対話の暴力、解釈の暴力、恋愛の暴力……。最近は若い女性向けの雑誌にエッセイを書くとき、「今の読者は『戦う』といった言葉に引いてしまうので、そういう勇ましい言葉は使わえないほうがいい」と言われるようになりました。「暴力」という言葉が氾濫しているからこそ、それを過剰にイヤがる気持ちも生まれています。
私が帯に書かせてもらった言葉(「暴力はいけません」と決めつけることの暴力性に、私たちは気づいているだろうか)は、まさに森さんの本から引用しています。この言葉に触れたとき、ふと思ったんですよ。
自分は保育士をしていたので、私も「暴力はいけません」とは子どもたちに何百回も言ってきました。でも、これって統治者の視点の言葉なんですよね。一律のルールにして、その場を回すための言葉です。
保育の現場だと、たまにいじめられても反撃しない子がいます。当然、私たちは「暴力はいけません」と注意する。でも、いじめられっ子が耐えかねてついに反撃したとき、私たちはスタッフルームで、こっそり「よくやった!」と言っちゃうんです、やっぱり。
その「よくやった!」と言いたくなる「暴力」って、尊厳と結びついたものなんですよね。やむにやまれぬ行為としての「暴力」。単に「暴力はいけません」と言うだけでは、そういう「尊厳を守るための暴力」も否定することになってしまいます。