別班=ムサシ機関
固い口を開き始めた関係者らの一連の刊行物の中では、別班員だった阿尾博政が2009年6月に出版した『自衛隊秘密諜報機関青桐の戦士と呼ばれて』と、阿尾の著作への反発から上司の別班長だった平城弘通が2010年9月に出版した『日米秘密情報機関』の2冊も、関係者の間で話題を集めた。
阿尾の著書の略歴には次のようにある。
〈1930年、富山県に生まれる。中央大学卒業後、国旗掲揚協賛会や東南アジア親善協会の運動に携わる。1955年、久留米の陸上自衛隊幹部候補生学校に入学。富士学校レンジャー研究課程を修了後、習志野の第一空挺団に勤務、その間、陸上自衛隊調査学校「対心理情報課程」に参加する。1963年、陸上自衛隊幕僚監部第2部(諜報部門)に異動したあと、日米合同の諜報機関、通称「ムサシ機関」に勤務、後に「阿尾機関」として独立し、国内外のさまざまな工作活動に従事する。1972年、日本と台湾の国交断絶を機に台湾に派遣され、日台の空路再開問題の解決などに尽力。1982年、台湾国民党大陸工作会のメンバーとして中国での情報工作を開始する。1991年、非公式に、防衛庁を定年退職。2000年、NPO法人「日台経済人の会」の理事長に就任〉
全てが事実だとすれば、まさに波瀾万丈の人生だ。同書では自身の活躍を冒険譚のように描いている、しかし、〈「阿尾機関」として独立〉以降については、情報関係者の間では「眉唾」「噴飯物だ」と厳しい見方をする人が多い。
一方で注目すべきは、阿尾がこの中で初めて、別班の別名が「ムサシ機関」であることを明らかにし、その実態に触れていることだ。当時「ムサシ機関」は朝霞の米軍キャンプ・ドレイクの内部にあった。
〈そこで当時の機関長の平城一等陸佐を始め、作戦幕僚、補給幕僚といった二十数名の機関の要員たちを紹介された。このとき、私は初めて、この機関が通称「ムサシ機関」と呼ばれる、米軍と自衛隊との唯一の合同諜報機関であることを知ったのだ〉
〈機関のなかには、台湾の日本人軍事顧問団「白団」で活躍した者、北部方面調査隊で鳴らした者、また警務隊の出身者や中央調査隊の経験者たちがいて、年齢、階級、諜報要員の経験においては私より先輩の人間ばかりだった〉
〈数週間の教育が終わり、やがて私が兄貴と呼ぶことになる内島洋班長のもとで仕事をすることになった。内島班は、内島班長、班員の根本、伊藤の三名で構成されていて、当時は、新宿区大久保の住宅地にあった2Kのアパートの一室を事務所としていた〉
〈こうした諜報の拠点は、存在を隠すために、約二、三年ごとに転出をくり返すのだが、ここに私が新米諜報員として加わったのだ。最初の担当地域は極東ロシアであった。このため、ロシア語を勉強しなければならず、夜間は御茶ノ水にあったニコライ学院に通った〉
阿尾が記述する〈内島洋班長〉とは、赤旗の取材班が内部告発に基づいて尾行して特定、通勤姿を撮影までした「別班長の内島2佐」その人だ。
ただし、阿尾が別班で働き始めたころの「内島班長」は、まだこの時点では、別班内のグループリーダー、アジトのキャップに過ぎない。別班長(ムサシ機関長)に昇格するのは後のことだ。
そして阿尾の著書の中でもう一人、目を引くのが〈当時の機関長の平城一等陸佐〉だ。