今年4月――。15歳の少年が、“プロアスリート転向”を宣言した。リモートで行われた会見には、テレビ各局や新聞各社が参加し、話題性と注目の高さをうかがわせる。
少年の名は、小田凱人。「凱」の漢字が有する「かちどき」の意と、悠久を連想させる音の響きから「ときと」と読む。
16歳の誕生日を10日後に控えたこの日、彼は国内最年少の、プロ車いすテニスプレーヤーとなった。
「最年少」の3文字に対する執着を、小田は隠そうとはしない。ジュニアの世界ランキング 1位には、14 歳11か月の史上最年少で昇りつめた。その先に目指すのは、年齢制限のないシニア部門での最年少1位だ。
現在の最年少記録は、イギリスのアルフィー・ヒューエットが4年前に樹立した20歳1か月。この記録打破に照準を定める小田は、新記録樹立の日から逆算し、たどるべき順路も設計している。
16歳の前半で、世界ランキング7位以内に。
上位8選手が出場できるグランドスラムに出場し、18歳で迎える2024年パリ・パラリンピックでメダル獲得。
翌年にはグランドスラムで優勝し、そして20歳前に最年少世界1位へ――。
それが小田本人と、彼をサポートする人たちが描いた青写真。1年を通じ海外ツアーを転戦するためにも、中学卒業と同時にプロの道へ進んだ。
小田がそこまで記録にこだわるのには、理由がある。
プロ転向会見で、小田は所信を次のように語っていた。
「これからは選手として日本のパラスポーツを盛り上げ、障碍のある子どもたちも活躍できる世の中を作っていけるアスリートになり、今病気と闘っている子どもたちのヒーロー的な存在になれるテニスプレーヤーを目指して、頑張っていきたいと考えています」
年齢より遥かに大人びた表情と語り口で、彼は言葉に決意を込める。
子どもたちのヒーローに――その想いの原点にあるのは、彼自身の経験だ。

「子どもたちのヒーロー的な存在に」ー16歳のプロ車いすテニスプレーヤー、小田凱人が「最年少世界1位」にこだわる訳
2022年5月から6月上旬にかけてパリで開催された全仏オープンで、若き車いすテニス選手がグランドスラムデビューを果たした。16歳の少年が、胸に宿す使命感とは? トップ画像(写真:Panoramic/アフロ)

9歳で病を発症。病床で目にした“ヒーロー”の姿
小田が骨肉腫を発症したのは、9歳の時だった。
左足の自由を失ったため、大好きなサッカーは諦めざるをえなかった。その時、彼に新たな夢を与えてくれたのが、車いすテニス界の絶対王者・国枝慎吾。2012年ロンドン・パラリンピックで金メダルに輝く国枝の姿に、病床の少年は魅せられた。
「自分が病気で入院していた時に、YouTubeで観た国枝選手が、本当にかっこよかった」
あの時の感動を、小田は今も瑞々しく語る。国枝にもらったその勇気や希望を、今度は自分が、多くの人たちに与えたいと望むのだろう。
プロになった今、世に伝えたいと望むメッセージを、小田は次のように明確に言葉に置き換える。
「自分が、いわゆる健常者から障碍者になり、いろんな壁だったり、それまでとの違いは感じてきました。しかし、病気になったらスポーツができないかといったら、そうではないと体現したい。
病気やケガとは関係なく、プレーや試合を観てもらいたい。観た人が、車いすテニスやスポーツを始めるきっかけに自分がなれたら、ベストな結果かなと思っています。その意味で、自分が病気になったときと同じくらいの歳の子どもたちに何か感じてもらえたら、自分が選手として、やっていてよかったなと思う瞬間でもあるのかなと思います」。
その決意を実現する旅の大きなステップを、彼はパリで踏み出した。今年5月開幕の全仏オープンでのグランドスラムデビュー。それは描いていた青写真より、幾分早いペースだ。

全仏オープンで歩み出した“理想像”への旅路
自身の名前の由来でもある、凱旋門がランドマークのこの町で、小田は二つの凱歌を奏す。いずれの試合も、重要なポイントやリードされた局面で、闘志を前面に出してつかみ取った勝利。
逆境での強さには、小田本人も「巻き返すのは得意というか、エネルギーになる」と自覚的だ。
その強さの理由を問われると、「ありきたりですが……」と照れた笑みをこぼして、小田は続けた。
「病気から戻ってきたというのも、大きいと思います。ずっと抗がん剤治療をして本当に体力がなくなった状況から、今、普通以上のレベルでスポーツができていることに自信はある。どんなところからでも上がってこられると、そういう経験からも感じている。だから試合中も諦めないし、どんな状況になってもいつも通りのプレーができる」。
なお今大会でのベスト4進出で、小田が手にした賞金は14,000ユーロ、日本円にして約200万円だ。“プロ車いすテニスプレーヤー”が成り立つのは、競技者を支える構造があるからでもある。

初出場の全仏オープンで、テレビ局の取材を受ける小田
奇しくも、というべきか、あるいは両者の運命を思えば必然か、小田にとって初のグランドスラムは、準決勝で国枝に敗れることで終幕した。
「改めて強かったなと、率直に思います」
試合後に完敗を認めた小田の姿は、数日後、決勝戦を戦う国枝の試合のコートサイドにあった。
その小田の見る前で、国枝は幾度も逆境に追いやられながらも、その都度蘇りタイトルをつかみとる。
ガッツポーズを掲げる国枝の姿を目に焼き付け、小田は、目指す地点への距離を測ったはずだ。
国枝との対戦を控えた日、小田は言っていた。
「自分は、国枝選手とは少し違った道を進みたい。若さを生かし、年齢に関係なく活躍するというかたちで」
最年少世界1位にこだわるのもまた、国枝という絶対的なカリスマがいてこそ。
「一つの理想形」と仰ぎ見つつも、今では「ライバル」と目する存在を超えるために、小田は唯一無二の王者像を、刻む轍で描きにいく。

取材・文/内田暁