
〈伝説のライブ映画公開〉中森明菜(57)、業界が今も語り継ぐ異様な“金屏風会見”とあの“事件”の真相。そして彼女は表舞台から姿を消した
歌手の中森明菜(57)が1989年に東京・よみうりランドEASTで行った野外ライブの映像が、デジタルリマスター版で全国の映画館にて上映されることが話題になっている。その1989年、彼女の身に何が起こったのか、今なお語られる伝説と騒動を振り返る。(サムネイル、トップ画像:出典/週刊明星1990年1月18・25日号)
衝撃的だった1989年のフライデー
近藤真彦と松田聖子の密会
“伝説の歌姫”中森明菜の復帰の動きが本格化している。
2014年に紅白出場、2015年にアルバムリリース以降沈黙していた明菜だが、昨年8月に新事務所を立ち上げて公式Twitterを開設、今年4月28日には、1989年に東京・よみうりランドEASTで開催した伝説のコンサートの映像が『中森明菜イースト・ライヴ インデックス23 劇場用4Kデジタルリマスター版』として全国の映画館で上映される。
「ライブ上映後には明菜が収録した音声メッセージが流れるようです。これは2014年以降初の肉声メッセージということで大きな話題となっています」(スポーツ紙記者)
これまで活動休止と小さな復活を繰り返してきた明菜。今度こそ本格復帰となるのかは今後の行方を見守るしかないが、明菜が活動休止にまで追い込まれた最大の原因は、1989年に起きた一連の出来事にまでさかのぼる。
当時交際中だった近藤真彦とのスキャンダルは芸能史上に残るセンセーショナルで悲劇的なものだった。
1982年に『スローモーション』でデビューした明菜は、その類稀な歌唱力とルックスで、すぐにヒット曲を連発し85年『ミ・アモーレ(Meu amor é・・・)』、86年『DESIRE -情熱-』と、2年連続で日本レコード大賞を受賞するなど、スターとしての地位を不動のものにしていたが、その私生活においてもマスコミを騒がせていた。
デビュー翌年には同じくトップアイドルだった近藤真彦との交際が明らかになったからだ。

82年のデビューシングル『スローモーション』。この楽曲は、ヒットメーカーである来生えつこ・来生たかお姉弟の作詞作曲で、当時のアイドルのデビュー曲としては、大人びた難易度の高いナンバーだった。歌唱力の高い明菜だから歌いこなせたといえる
しかし2人の交際は順風満帆とは言い難いものだった。当時のトップアイドル同士の交際という事情に加え、事務所同志の軋轢と思惑、そして近藤には明菜以外の女性の影がつきまとうこともあったからだ。
「当時20代でトップアイドルだった近藤はもちろんモテましたからね。アイドル歌手の橋本美加子や美人モデルなど、マッチの“浮気情報”がしょっちゅうマスコミをにぎわせました」(前出スポーツ記者)
一方、明菜は近藤の女性関係に悩みながらも、マスコミのインタビューで結婚願望を口にするなど一途な思いを隠さなかった。山口百恵に憧れを持っていた明菜は結婚したら家庭に入り芸能界を引退したがっている、とのマスコミ報道もあったほどだ。
男の浮気と女の結婚願望―当時の芸能マスコミでも“結婚間近説”と“破局説”の情報が錯綜した。そんな時、決定的な出来事が起こる。1989年に写真週刊誌「フライデー」(2月14日号/講談社)が近藤真彦と松田聖子のNYでの密会をスクープしたのだ。
その報道は衝撃的だった。明菜の恋人のはずの近藤が、明菜の最大のライバルと目されていた聖子と密会していたのだ。そして当時、聖子には神田正輝という夫がおり、いわば不倫でもある。そして掲載された5枚の写真には2人が抱き合うようなシーンも映し出されていた。
たった一言、「ごめんなさい……」
「二人は、肩をぴったり寄せ合って何事か語りあい、時には、彼が彼女の頰に唇を寄せるような、仲睦まじいシーンさえ演じていたのである」(「フライデー」記事より)
この一件は明菜に大きなダメージを与えた。思いつめる性格だと関係者が口を揃える明菜だったが、その憔悴ぶり、そして情緒不安定ぶりが頻繁に報じられていく。
そして「フライデー』報道から5カ月ほど経った7月11日午後、明菜はカミソリで左腕を切り自殺を図る。場所は近藤の自宅マンションの浴室、そして発見者は近藤自身。その様子を当時の芸能誌「週刊明星」(1989年7月27日号/集英社)は臨場感たっぷりにこう報じている。
《(近藤が)ドアをあけ、室内に入ると、バスルームの洗い場に、うずくまるようにして倒れている明菜の姿…。
よく見ると左腕のヒジの内側あたりから、鮮血が吹き出している。
「どうしたんだ!」
駆け寄ってそう声をかけるマッチ。明菜は、その声に、たった一言、「ごめんなさい……」》
幸い自殺は未遂で終わったが、この事件を境に明菜は表舞台から姿を消した。そんな明菜が姿をあらわしたのは自殺未遂から173日後の12月31日の大晦日。都内ホテルには、明菜の“緊急復帰会見”として300人もの報道陣が集められたが、その会見は異様なものだった。

当時の会見の様子。明菜が着ていたスーツは完売したとか(「週刊明星」1990年1月18・25日号より)
明菜のファンに対する謝罪から始まった会見だが、「近藤さんに、私よりもっともっと辛い気持ちを与えてしまいました」と近藤へのおわびと感謝を明菜が口にしたところで、なんと会場に当事者である近藤が現れたのだ。
泣きながら近藤と握手をする明菜。そして近藤は明菜とオープンな交際を続けますが、婚約などはまったく考えていないと明言したのだ。騒然とする会場だったが、その一部始終はテレビで生中継され、視聴率は19.7%にもなった。
さらに異様な要素は2人の座る席の背後にもあった。そこにはなぜか金屏風が置かれていたのだ。
「実はこの会見について明菜は、近藤との“婚約会見”だと信じ込まされていたとも言われています。それまでの明菜は記者会見が苦手で新曲発表でもほとんど出てこなかった。
しかし会見を開いて、けじめをつけないと復帰もできない。さらにこの会見は近藤のためでもあった。自殺未遂の原因は近藤ではなく、明菜を支え続けるとアピールする必要が近藤にはあったからね。近藤は会見でも明るく爽やかに、かつ男気を見せる演出を続けた。明菜をダシにして、実際は近藤がみそぎを済ませたかのような会見でしたね」(会見に出席していた芸能記者)
この会見が明菜にさらなる追い打ちをかけたことは間違いない。明菜はこの“復帰会見”後、しばらくは近藤と交際を続行したといわれるが、ほどなく破局。その後は芸能活動、私生活ともに迷走を続けることになる。
そこには、近藤との関係だけでなく、それ以前から、そしてその後もずっと明菜を翻弄し悩まし続けたいくつもの問題が横たわっていた。そのひとつが家族との問題、さらにトップ歌手・明菜の周囲を取り巻く関係者の裏切り、そしてまた別の男の存在だ。

週刊明星 1990年1月18・25日号(集英社)
文/神林広恵
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