〈マッチだけではなかった〉度重なるオトコたちの裏切り、家族との不協和音…それでもファンが明菜を待ち続ける“理由”とは… はこちらから

衝撃的だった1989年のフライデー
近藤真彦と松田聖子の密会

“伝説の歌姫”中森明菜の復帰の動きが本格化している。

2014年に紅白出場、2015年にアルバムリリース以降沈黙していた明菜だが、昨年8月に新事務所を立ち上げて公式Twitterを開設、今年4月28日には、1989年に東京・よみうりランドEASTで開催した伝説のコンサートの映像が『中森明菜イースト・ライヴ インデックス23 劇場用4Kデジタルリマスター版』として全国の映画館で上映される。

「ライブ上映後には明菜が収録した音声メッセージが流れるようです。これは2014年以降初の肉声メッセージということで大きな話題となっています」(スポーツ紙記者)


これまで活動休止と小さな復活を繰り返してきた明菜。今度こそ本格復帰となるのかは今後の行方を見守るしかないが、明菜が活動休止にまで追い込まれた最大の原因は、1989年に起きた一連の出来事にまでさかのぼる。

当時交際中だった近藤真彦とのスキャンダルは芸能史上に残るセンセーショナルで悲劇的なものだった。

1982年に『スローモーション』でデビューした明菜は、その類稀な歌唱力とルックスで、すぐにヒット曲を連発し85年『ミ・アモーレ(Meu amor é・・・)』、86年『DESIRE -情熱-』と、2年連続で日本レコード大賞を受賞するなど、スターとしての地位を不動のものにしていたが、その私生活においてもマスコミを騒がせていた。
デビュー翌年には同じくトップアイドルだった近藤真彦との交際が明らかになったからだ。

〈伝説のライブ映画公開〉中森明菜(57)、業界が今も語り継ぐ異様な“金屏風会見”とあの“事件”の真相。そして彼女は表舞台から姿を消した_a
82年のデビューシングル『スローモーション』。この楽曲は、ヒットメーカーである来生えつこ・来生たかお姉弟の作詞作曲で、当時のアイドルのデビュー曲としては、大人びた難易度の高いナンバーだった。歌唱力の高い明菜だから歌いこなせたといえる
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しかし2人の交際は順風満帆とは言い難いものだった。当時のトップアイドル同士の交際という事情に加え、事務所同志の軋轢と思惑、そして近藤には明菜以外の女性の影がつきまとうこともあったからだ。

「当時20代でトップアイドルだった近藤はもちろんモテましたからね。アイドル歌手の橋本美加子や美人モデルなど、マッチの“浮気情報”がしょっちゅうマスコミをにぎわせました」(前出スポーツ記者)

一方、明菜は近藤の女性関係に悩みながらも、マスコミのインタビューで結婚願望を口にするなど一途な思いを隠さなかった。山口百恵に憧れを持っていた明菜は結婚したら家庭に入り芸能界を引退したがっている、とのマスコミ報道もあったほどだ。

男の浮気と女の結婚願望―当時の芸能マスコミでも“結婚間近説”と“破局説”の情報が錯綜した。そんな時、決定的な出来事が起こる。1989年に写真週刊誌「フライデー」(2月14日号/講談社)が近藤真彦と松田聖子のNYでの密会をスクープしたのだ。

その報道は衝撃的だった。明菜の恋人のはずの近藤が、明菜の最大のライバルと目されていた聖子と密会していたのだ。そして当時、聖子には神田正輝という夫がおり、いわば不倫でもある。そして掲載された5枚の写真には2人が抱き合うようなシーンも映し出されていた。