『ロッキング・オン・ジャパン』編集部による「人格プロデュース」

小山田圭吾が炎上した“イジメ発言”騒動。雑誌による有名人の「人格プロデュース」は果たして罪なのか?_1
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前回も触れたように、昨年の騒動のきっかけとなったいじめをめぐる小山田発言の出典は、1990年代の2つの雑誌だ。第一に、『ロッキング・オン・ジャパン』(以下『ROJ』)1994年1月号。そこではとりわけ、自慰と食糞の強要というショッキングな加害が、いかにも軽々しく響く謝罪の言葉とともに語られていた。

ところが小山田氏は、同誌(アーティスト側に事前の原稿確認をさせない方針で知られる)の発売当時からこの記事に深く困惑し、それを複数の機会に公言していた。というのも実際には、食糞のくだりは、何でも食べてしまう小学校時代の級友が、犬の糞を食べてすぐに吐き出したのを笑いながら見ていたというエピソードにすぎないというのだ。

一方、自慰強要のほうは、元上級生の暴走をうろたえながらも傍観していたエピソードなのだという。いじめにおける傍観者の責任は悩ましい問題だとはいえ、小山田氏に憤りを集中させるべきだとも思えない。

こうしたエピソードの素材は小山田氏が進んで提供したものであり、そのこと自体の軽率さは否定しようもない。しかしそんな若き日の小山田氏自身、このような誇張と歪曲を受け入れられるはずもなかった。

なお、『ROJ』編集長(当時)の山崎洋一郎氏が小山田氏のいじめ発言に飛びつき、大いに脚色して雑誌に掲載したのは、必ずしも悪意からではない。むしろ同氏は、小山田氏を軽薄な「渋谷系」とみなし、その高い音楽性を認めようとしない既存のロックファンを説得して、シーンの中に居場所を与えるために、いじめっ子でありつつひ弱なやさぐれものというアーティストイメージを提示したかったようなのだ。

ここに山崎氏の音楽ジャーナリストとしての熱意を認めないのは不当と言うべきだろう。ただし問題は、この熱意が本人度外視の「人格プロデュース」の域に達していたこと、そのため小山田氏の思惑を越えたところで、のちの破局の種を蒔いてしまったことだ(以上、より詳細は「長い呪いのあとで小山田圭吾と出会いなおす(2)」を参照)。