弘安の役(1281年)
文永の役で敗戦を喫した蒙古軍は、こんどは約14万名もの大軍を組織して1281年(弘安4年)6月に再び博多湾への上陸を試みた。
しかし、日本の防衛軍が再度の来襲に備えて海岸沿いに多数の防塁を築き、迎撃準備を整えていたため、蒙古軍は上陸できなかった。海戦は7月末まで続いたが、7月30日に台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没または損壊、多数の溺死者を出す大損害を被る。
その後の日本軍の追撃でさらに兵力を失った蒙古軍は、ついに撤退を余儀なくされた。蒙古軍のうち帰還できた兵は全軍の1〜4割(14,000〜56,000名)程といわれる。
なかなか橋頭堡を築けない蒙古軍に対し、日本の武士団は陸でも海でも果敢に夜襲を敢行した。
蒙古軍は舟に積んだ矢が尽きてしまうと、補給ができないため弓矢を使えなくなった。そうした状況で、小舟で襲来し火矢まで放ってくる日本の武士団に対抗できなくなっていく。
元寇の神風
元寇では「神風」が吹いて蒙古軍が壊滅したという逸話がある。これはいささか誇張された表現だが、蒙古軍が文永の役、弘安の役で二度にわたって被災したことは確かで、文永の役では突発的な強風によって、弘安の役では台風によって多くの軍船を失う損害を被った。
特に弘安の役では、台風によって木造の軍船同士が衝突して砕け、約4,000隻のうち残ったのはわずか200隻という記録も残されている
蒙古軍の船団は密集することで日本の小舟の襲撃に対抗しようとしたが、暴風雨と波浪を受けて逆に多くの被害が出る始末だった。蒙古軍の大規模な渡洋作戦は、鎌倉武士の活躍と天助によって潰えたのである。
文・イラスト/ヒサクニヒコ