朝鮮総連が握りつぶした内部告発
――それまでは北朝鮮や帰国事業について、どういったイメージを持たれていたのでしょうか。
石丸 私の両親は大分から大阪に来て長くニュータウンの団地暮らしをしました。被差別部落や在日朝鮮人の人権問題については授業や本を通して知った程度です。
高校3年生のときに起こった光州事件に衝撃を受け、大学に入ってから朝鮮半島問題に関わるようになりました。ですから、在日の北朝鮮帰国については、80年代初めになって、つまり事業が終わる頃に初めて聞いたというレベルです。
20代前半、在日、日本人の活動家の先輩の中に、帰国事業について語る人はほとんどいませんでした。稀にあっても、差別と貧困に喘ぐ朝鮮人が祖国に帰った人道的な事業だったという通り一遍の説明でした。
80年代半ば頃から帰国事業についての告発本が出始めます。多くは北朝鮮に肉親のいる在日の書いたもので、地上の楽園どころか、経済はガタガタでとんでもない監視統制社会だという内容でしたが、韓国は当時、全斗煥軍事独裁政権時代でしたので、韓国、民団の謀略情報の類で割り引いて見るべきだと高をくくっていました。
そのような告発本、暴露本が増えていく中で、東西冷戦が崩壊します。僕はちょうど韓国に語学留学中だったのですが、北朝鮮も相当悪いらしいし、内部は動揺しており潰れるんじゃないかという分析が出てきます。
そして90年代に入ると帰国者の在日家族からの告発が始まりました。肉親が政治犯として捕らえられて行方が分からない、処刑されたなどの衝撃的な内容で、革新系の日本市民が支援を始めましたが、朝鮮総連が組織動員して集会に押しかけて妨害するということが繰り返されました。
組織を挙げて帰国事業を「慶事」としてきた総連としては、内部告発を何としても握りつぶしたいと考えたのでしょう。
このような時代と社会の変化を受けて、僕自身の北朝鮮や帰国事業に対する認識は徐々に変化していきましたが、民主化された韓国社会にはまだ反北、反共主義の残滓はたっぷり残っているし、日本の右派の北朝鮮バッシングも根強く、逡巡が続き、それなら直接北朝鮮の人と交わってみようと思い立ち、朝中国境通いを始めたわけです。
99年から中国に脱出してきた帰国者10数人に会って、何らかの形にまとめて世に出さないといけないと考えるようになりました。2000年代をピークに、韓国や日本に入ってくる脱北帰国者がさらに増加したので、いつかしっかりした記録集を作ろうと思い始めました。
ただ、僕自身も北朝鮮での帰国者の生き様あるいは死に様については分からないことだらけです。インタビューした帰国者の話しは個人の特殊な体験かもしれないし、中には過剰な表現をする人がいるかもしれない。発言を検討せずにそのまま載せるのは正確性に欠ける。
それである程度のボリュームが必要だと考えました。しっかりと歴史に刻むためには、フェアなものにしないと評価されない。脱北帰国者は皆さんお年で、亡くなる人も出始めた。早くやらないとまずい。でも僕にはお金もないし、日韓で一人で取材するのは時間がかかりすぎる。
それで周りの在日と日本人の有志に呼びかけてインタビューの一部を担当してもらうという流れを目指すことにしました。















