毎晩30〜50人の飢民が中国に越境

〈「地上の楽園」の現実〉北朝鮮へ渡った9万3000人の在日朝鮮人…脱北者50人が語った「幸せな瞬間は一時もなかった」_5

――石丸さんに伺います。この取材を始めたきっかけ、そしてその変遷について教えてもらえますか。

石丸 北朝鮮取材を始めたのは93年の7月。朝中国境全域を、鴨緑江を遡って白頭山の頂まで行き、豆満江に沿って最下流まで下る取材をしました。

何もかも新鮮で楽しい取材だった一方で、少数ながら北朝鮮の人と会って厳しい現実を聞かされて大きなショックを受けました。僕自身はもちろん、記者も研究者も北朝鮮という国が一体どうなっているのかほとんど分かっていないということに気付かされました。

朝中国境にはかれこれ100回程行きました。どっぷりはまる転機となったのは97年夏の取材です。

凄まじい数の飢民が、中国に越境して来ました。豆満江沿いにある人口1000人くらいの朝鮮族の村々に、毎晩30〜50人が押し寄せてきていて、片っ端から彼らにインタビューしましたが、一体なぜこれ程までに飢えているのか、統制の厳しい北朝鮮から夥しい人が越境するなんて、社会統制はどうなっているのか…。すべてが衝撃でした。

〈「地上の楽園」の現実〉北朝鮮へ渡った9万3000人の在日朝鮮人…脱北者50人が語った「幸せな瞬間は一時もなかった」_6

彼らの中に日本からの帰国者に言及する人たちがいました。日本から仕送りのない帰国者は悲惨で、「コジポ(乞食の在日僑胞の意)」と呼ばれており、餓死する人もいると。いつか越境者の群れの中にいる帰国者に出会うだろうと予測しましたが、案の定、98年に会うことになります。

福岡出身の帰国者の娘で、日本にいる親族と連絡を付けるために中国に越境してきていました。彼女から、別れ際に「アボジ(父親)とオモニ(母親)を連れて中国に来るから、なんとか日本に連れて行って欲しい」と懇願され、たじろぎました。脱北した帰国者を取材するということは、自分ものっぴきならない立場に立たされるということを想像しました。

99年から、脱北帰国者と直接接する機会が増えました。初めてじっくり付き合ったのは福岡出身の妻と岡山出身の夫と2人の娘の家族でした。寄る辺がない人たちなので僕の延吉の取材拠点のアパートに入ってもらい、寝食を共にしながら、北朝鮮での暮らしについて長期間話を聞きました。

在日が北朝鮮でどんな暮らしをし、どういう思いで過ごしてきたのか、初めて知ることばかりで、北朝鮮に渡った人たちの人生に、さしたる関心を向けて来なかったことに恥じ入りました。学生時代から、端っこの方でですが、韓国の民主化や在日の人権問題について関わって来たのですが、帰国者については、目を逸らしてきことを突きつけられたからです。