高橋氏は、ある時歩き慣れた鎌倉の道を逆向きに歩いてみた。それで驚いた。同じ道でもまったく違う風景が見えたからだ。そうして久しぶりに東京を歩いてみたくなったという。
高橋源一郎が教える「最高の街の見かた」
見慣れた風景も見かたひとつで新しい世界になる。世界が変われば自分も変わる――。小説家、高橋源一郎氏がコロナ禍と五輪騒動の2年間、静かな東京の街を歩きまわり、その尽きせぬ魅力を綴った『失われたTOKIOを求めて』が発売された。同書より一部、抜粋・再構成し、街歩きを最高のエンターテイメントにする方法をお届けする。
人それぞれ、みんなが「TOKIO」を持っている
TOKIOはみんな持っている。どこにでもある
歩いていると、鎌倉で逆向きに散歩したときのように、過去の風景が蘇ってくることがあった。そこには、もう存在しない、わたしの過去の時間が埋めこまれているようだった。だが、それは、誰にでもある経験だろう。
誰の目にも同じように見える、現在の東京の風景の向こうに、わたしの時間が埋めこまれた、別の東京の風景があるように思えた。それを、わたしは、仮に「TOKIO」と呼んでみた。それは、近未来的な東京の呼び方であると同時に、その中に「TOKI(時)」が入りこんだ名前でもある。(はじめに)

高橋氏がはじめて東京に来たのは六歳のとき。当時の風景はすでにほとんど残っていない。
考えてみると歴史と街は個人が集まってつくるもので、「やっぱり個人の体験は個人のもの」というところで似ている。
東京という街も、今の自分が見る風景があるのと同時に、今はもう見えない、過去の自分が過ごした「時」もそこにあった。人それぞれみんなの「TOKIO」がある中で、本書では高橋氏の「TOKIO」が語られる。
歩いた場所は御茶ノ水、新国立競技場、新宿。あるいは上野公園やトキワ荘マンガミュージアム、三鷹の森ジブリ美術館も。
高橋氏が幼少時、家族とともに東京に来た理由は「夜逃げ」だった。夜中に起こされ、大阪駅へ。それで東京に向かい最初に住むことになったのは大泉学園。ここのマイホームは瀟洒な二階建ての家だったが次に狭いアパートに移る。
ずっと時間が経ち大学生になると、警察署や拘置所に「住む」ことにもなる。訪れる場所には、街の歴史とともに、そうした高橋氏の時間が埋め込まれていた。たとえば、
およそ半世紀も前のことだった。週に何度か、わたしは御茶ノ水駅に降りた。降りると、いつも、ツンとくるような臭いが漂っていた。機動隊が発射するガス弾の「残り香」だった。そして、その臭いを嗅ぐと、いつも、胸の動悸が激しくなるのだった。
駅の周りをジュラルミンの楯を並べた機動隊員が取り囲み、降りてくる学生を睨にらみつけているときにも、ひそかに考えていることを見透かされているのではないかと思い、改札口を出て、下を向いて歩きながら、やはり鼓動が高まるのだった。(御茶ノ水 文化学院、夢の跡)
御茶ノ水では、高橋氏の時間はひとつの「門」を通って明治に接続される。そして与謝野晶子、鉄幹夫妻の勧めに従って西村伊作が創立した学校「文化学院」について語られる。
この学校が目指したものは自由。川端康成や小林秀雄、菊池寛らを先生に招き、歴史の趨勢が大正から昭和にかけて急激に自由を失っていく中、「自由にものを考える」ことを生徒たちに伝えたのだ。
マンガの黄金時代とTOKIO
高橋氏は昭和33年(1958)から34年(1959)にかけて椎名町駅の近くに住んでいた。当時の暮らしは非常に厳しく、家賃もなかなか払えない。
支払いをしのごうとして父親が通帳に細工し、大家さんに「お互いに貧しいのだから、いってくれればよかったのだ。無慈悲に取り立てるわけじゃない。だが、誤魔化すのはいかん」と諭されたこともあったという。
そしてこの同じ時間に、マンガの聖地として知られる「トキワ荘」もちょうど黄金時代を迎えていた。
藤子不二雄のひとり、安孫子素雄がトキワ荘を初めて訪ねたのは、昭和二九年二月のことだった。それは後で本格的に上京するための下見だった。安孫子は雑誌社への訪問の後、トキワ荘の手塚を訪ねた。手塚は喜んだが、他所(よそ)でカンヅメになるため出かける必要があって、反対の二二号室の寺田に、安孫子を紹介し「ちょっと相手をしてやってくれ」と頼んだ。手塚は数時間のつもりだったが、すぐには帰って来なかった。結局、安孫子は一週間ほど寺田の部屋に滞在することになり、その間、ふたりは急速に親しくなっていった。(トキワ荘マンガミュージアム マンガが若かったころ)
トキワ荘は昭和57年(1982)に取り壊されたが、後の令和2年に再現された「トキワ荘マンガミュージアム」を高橋氏は訪れる。そこを出てふり返ると、まるで夢の中の風景のようだったという。
桜の花が、建物をおおうように咲き誇っているのが見えた。まるで夢の中の風景のようだった。けれども、それが、誰の夢なのかはわからなかった。(ときわ荘マンガミュージアム マンガが若かったころ)
約束された場所、渋谷
高橋氏が満を持して訪れるのは渋谷。渋谷との縁は中学のときに生まれた。当時、千歳船橋に住んでいた高橋氏は、港区の私立中学に入学し、下北沢駅で乗り換えて渋谷に出ることになったのだ。もっとも当時はスクランブル交差点もまだなく、今もあるのはハチ公の像だけだ。しかし
そこは約束された場所だった。たくさんの作家たちが、理由もわからないまま、そこについて書きたいと思う場所だった。(渋谷 天空の都市と地下を流れる川)
明治初期、渋谷はまだ、武蔵野の深い森。その森の家にすみ、近隣を歩き回った国木田独歩が書き上げた作品が傑作「武蔵野」。つまり渋谷は日本近代文学発祥の土地だったのだ。
時代は下っても渋谷は「物語」の土地であり続ける。庵野秀明氏によって映画化された『ラブ&ポップ』(村上龍)、こちらも映画になっている『蛇にピアス』(金原ひとみ)、そして村上春樹氏の『1Q84』。
そうだ、言われてみると、ソフィア・コッポラ監督の映画『ロスト・イン・トランスレーション』も渋谷を主な舞台にしていた。
当然ではないか。ここは、どんなことでも起こり得る場所なのだから。(渋谷 天空の都市と地下を流れる川)
高橋氏はこの本のまえがきの最後でこのように綴っていた。
この本を読んで、みなさんが、みなさんの「TOKIO」について、思いを馳せてくれるなら、そして、頁を閉じ、久しぶりに歩いてみようかと思ってもらえるなら、それ以上の喜びはありません。
本書を読んで街を歩くと、自分の「TOKIO」(それは東京に限らずどこにでもある)がきっと見えるだろう。
実は「武蔵野」は本書の通奏低音にもなっている。今でこそ武蔵野というと、中央線の吉祥寺あたり、まさにジブリ美術館のある三鷹の森のあたりからはじまるイメージだが、高橋氏は明治神宮がすでに武蔵野であることを発見。その原野はもともと独歩の歩いた渋谷あたりまで広がっていたのだ。
そして「武蔵野」は、今では意外にも意外な形で、東京の、日本の中心に保存されている。高橋氏はあとがきというには長い、「皇居 長いあとがき」でその地を訪れ、御茶ノ水からはじまった高橋氏の「TOKIO」は、ひとまずゆっくりとその円環を閉じていく。
著者:高橋 源一郎
2022年4月7日発売
880円(税込)
新書判/192ページ
978-4-7976-8097-3
作家、高橋源一郎が、コロナ禍と五輪騒動の2年間、静かな東京の街を歩きまわった。
6歳のとき、夜逃げ同然で東京に出てきた作家は、この大都会で数十回の転居を繰り返しながら、街の変遷を見続けてきた。半世紀を経たいま、作家は新トキワ荘で赤貧の少年時代を、御茶ノ水で学生運動の時代を回想し、大晦日には閑散とした明治神宮を散策する。ジブリ美術館で宮﨑駿との、渋谷川で庵野秀明との交友を懐かしく思い、皇居では昭和天皇の語られなかった人生に思いを馳せる。時の古層を垣間見せる重層都市、東京の尽きせぬ魅力を達意の文章で愉しむ東京探訪記。