TOKIOはみんな持っている。どこにでもある

高橋氏は、ある時歩き慣れた鎌倉の道を逆向きに歩いてみた。それで驚いた。同じ道でもまったく違う風景が見えたからだ。そうして久しぶりに東京を歩いてみたくなったという。

歩いていると、鎌倉で逆向きに散歩したときのように、過去の風景が蘇ってくることがあった。そこには、もう存在しない、わたしの過去の時間が埋めこまれているようだった。だが、それは、誰にでもある経験だろう。

誰の目にも同じように見える、現在の東京の風景の向こうに、わたしの時間が埋めこまれた、別の東京の風景があるように思えた。それを、わたしは、仮に「TOKIO」と呼んでみた。それは、近未来的な東京の呼び方であると同時に、その中に「TOKI(時)」が入りこんだ名前でもある。(はじめに)

高橋源一郎が教える「最高の街の見かた」_a

高橋氏がはじめて東京に来たのは六歳のとき。当時の風景はすでにほとんど残っていない。
考えてみると歴史と街は個人が集まってつくるもので、「やっぱり個人の体験は個人のもの」というところで似ている。

東京という街も、今の自分が見る風景があるのと同時に、今はもう見えない、過去の自分が過ごした「時」もそこにあった。人それぞれみんなの「TOKIO」がある中で、本書では高橋氏の「TOKIO」が語られる。

歩いた場所は御茶ノ水、新国立競技場、新宿。あるいは上野公園やトキワ荘マンガミュージアム、三鷹の森ジブリ美術館も。

高橋氏が幼少時、家族とともに東京に来た理由は「夜逃げ」だった。夜中に起こされ、大阪駅へ。それで東京に向かい最初に住むことになったのは大泉学園。ここのマイホームは瀟洒な二階建ての家だったが次に狭いアパートに移る。

ずっと時間が経ち大学生になると、警察署や拘置所に「住む」ことにもなる。訪れる場所には、街の歴史とともに、そうした高橋氏の時間が埋め込まれていた。たとえば、

およそ半世紀も前のことだった。週に何度か、わたしは御茶ノ水駅に降りた。降りると、いつも、ツンとくるような臭いが漂っていた。機動隊が発射するガス弾の「残り香」だった。そして、その臭いを嗅ぐと、いつも、胸の動悸が激しくなるのだった。

駅の周りをジュラルミンの楯を並べた機動隊員が取り囲み、降りてくる学生を睨にらみつけているときにも、ひそかに考えていることを見透かされているのではないかと思い、改札口を出て、下を向いて歩きながら、やはり鼓動が高まるのだった。(御茶ノ水 文化学院、夢の跡)

御茶ノ水では、高橋氏の時間はひとつの「門」を通って明治に接続される。そして与謝野晶子、鉄幹夫妻の勧めに従って西村伊作が創立した学校「文化学院」について語られる。

この学校が目指したものは自由。川端康成や小林秀雄、菊池寛らを先生に招き、歴史の趨勢が大正から昭和にかけて急激に自由を失っていく中、「自由にものを考える」ことを生徒たちに伝えたのだ。