なぜ本を読むのか

読書で現実を超える 

 どんな逆境にあっても、本を読む術を知っている人は現実の困難を超えることができると私は考えています。読書には人を救い、幸福にする力があるからです。もちろん、そのようなことを考えることなく、ただ楽しむために本を読むのであっても、本を読んでいる間は現実を忘れることができます。 

 本を読み終わった後現実に戻ると、また苦しいかもしれませんが、もしも本を読まないで過ごしていたらその間ずっと苦しみと向き合わなければならなかったでしょう。私はこのようなことが必ずしも現実逃避とは思わないのです。 
 本を読むことで現実に直面することがあります。もしもまわりの人が自分が疑問に思うことに答えてくれないのであれば、自分で答えを探すしかありません。そうするために本を読んだ時に、思いもよらない受け入れ難い現実と直面することはあります。
 
 例えば、死について深く考えない人は悩まないでしょうが、一度死というものがあることを知ってしまうと元に戻ることはできません。前にも述べたように、私は小学生の時に肉親を次々に亡くし、死と直面することになりました。死について考えなければ、無邪気に子ども時代を生きられたかもしれません。 

 知らないことを知ることは本来嬉しいことですが、死について知ることは嬉しいとはいえません。しかし、そのことが生きる喜びを奪うわけではありません。このことがきっかけになって、私は後に哲学を学ぶことになったのですが、本を読むことでただ怖いというのではなく、現実を超えることができました。 

退職したら読もう、時間ができたら読もうと思っていると、その日がこないかもしれません。思い立ったらその時に読むのが一番です。_01
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 五十歳になってまもなく心筋梗塞で倒れて入院した時は、本を読むことを禁じられていました。絶対安静時は仕方がないと思っていましたが、音楽を聴いたりテレビを観たりすることは許されても本は読んではいけないことになっていました。おそらく、音楽を聴くのであればぼんやりと過ごせるのに対して、本を読むためには意識を集中しなければならず、そのことが術後の身体に障るということだったのでしょうが、本を読めない苦痛の方がはるかに強いストレスになりました。

 本を読めるようになってからは、病室に持ち込んだ本をゆっくり読みましたが、その時読んだ本は時間が経つのを忘れさせるようなものばかりではなく、死と向き合わせるものもありました。 
 心筋梗塞という病気については、父が長年狭心症を患っていたので、まったく知らないわけではありませんでしたが、知っていたといっても、心臓に酸素を送る冠動脈が狭窄(きょうさく)するのが狭心症、完全に閉塞するのが心筋梗塞であるということくらいでした。ところが、自分の病気となると切実さが違います。 
 自分が病気になると、同じ病気になった作家の書いた本が目に留まるようになりました。自分だけではなかったのだと思えるのは読書の一つの効用ですが、当然、亡くなった人のことも知るわけです。