自殺より事故死と思っていたほうが、少しでも気持ちが楽になれる
――失踪を知ったときはどんなお気持ちでしたか?
3月1日の夜、Aさんからの電話で隼都の失踪を知りました。警察に連絡するかどうかの相談も兼ねての電話でした。
とにかくびっくりしましたが、今思えば、同室の子がゲームをしているのを見て隼都も楽しんでいて、その子が出て行ったことで隼都の心にぽっかりと穴が空いて、隼都もゲームを我慢できなくなってしまったんじゃないかと。
用事もないのに上がるなと言い聞かせられていた2階に上がるようになったのは、そこで隠れてスマホに触ってゲームをするようになってしまったんじゃないかなと思ってるんです。
隼都が2階に上がる理由をちゃんと説明できなかったのは、自分のかっこ悪いことを隠すためで、そのせいで変に思われていることに居心地が悪くなって、どうしていいかわからなくなって逃げてしまったのかなって。
実は中学の時に、テレビゲームをやめない隼都を叱り、一旦は納得した表情をするのですが、その晩に家出をして探すということが3回ありました。そのうち2回は家の物置の中に隠れていたのを見つけましたが、1回だけ探しても見つからず朝方に帰ってきたことがありました。
だから今回も、次の日の朝に出てくるんじゃないかと期待しましたが、まずは自分も向かわなければと思って、すぐに飛行機のチケットを予約して、2日の朝の便に乗って、昼ごろに壱岐に着いて、詳しい状況や失踪するまでの流れも聞いて捜索に加わりました。
捜索中に他の実親さんや島民の皆さんも励ましてくださいました。
でも文春の記事を読んで虐待のことを疑っている人もいて、「あれはデマです」と伝えても納得してない様子でやりづらかったです。
――結果的に悲しい再会になってしまいました。
20日に警察から連絡があり、発見された隼都の写真だけ見せてもらいました。
警察署の安置室で、やっと隼都に会えましたが、骨一つ折れていないものの、遺体は傷んでしまって顔の判別はできませんでした。
着ていた服は間違いなく隼都の服でしたが、警察に触ってはいけないとも言われて、どうしていいかわからなかった。本心は抱きしめてやりたかったです。
21日に隼都を警察から預かって、そのまま火葬場に行きました。遺灰になってからは、もう離したくなくてずっと抱きしめた状態でAさんの家に帰りました。
22日には壱岐高校のテニス部の子たちも一人ひとり手を合わせに来てくれて、中でも隼都とペアを組んでいた子が号泣していたのが印象に残ってます。
24日に茨城に連れて帰り、26日に茨城でも葬儀を済ませました、その時はマスコミに知られたくなかったんで家族葬で済ませました。
――隼都さんの死は、事故だとお考えですか?
逃げている中での事故死の可能性が高いと考えています。隼都は身軽で木登りも得意だったので、足場の悪いところでも行けてしまうんです。
しかし、以前にAさん宅で空腹のときに、めまいやふらつくなど低血糖症状が出たことがあるようです。今回、何日も食事を摂っていなければ、同様な症状が起こりえます。
自分から海に入ったことも否定できませんが、2〜3日歩き回って、岩礁やテトラポットでふらついて転落した可能性はあると思っています。
自殺より事故死と思っていたほうが、少しでも気持ちが楽になれるとおっしゃってくださる方もいますし、自分も事故死という考えを貫きたいです。
今回一番お伝えしたい事は、隼都が行方不明の間、壱岐の島の多くの方々に捜索の協力をしていただいたことへの感謝です。
警察や消防はもちろんのこと、島の消防団、他の里親さんの方々、隼都が通った学校の先生方も夜中まで捜索をしてくださり、高校の同級生やテニス部の仲間たちも個人で捜索を手伝ってくれました。
捜索用のビラを何百枚も、一軒一軒配ってくれました。島内放送を聴いて自宅の敷地内の建物を確認してくださった方もたくさんいらっしゃいました。土地勘がない私が捜索を続けることができたのも、Aさん始め里親さんの人柄で協力してくださる方がたくさん集まってくれたからです。
3月21日、隼都は私たちの元に帰ってきてくれました。一番望まぬ結果ではありましたが、見つかってくれたことがせめてもの救いだと思っています。
協力してくださったすべての方々に感謝を申し上げます。
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取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班