大胆にパンク路線に切り替えるも…
1970年代末期、新宿ロフトはメジャー化したニューミュージック路線から大幅にその路線を変えることを余儀なくされた。私は「このままニューミュージックの連中に頼っていてはロフトはジリ貧になる」という危機感から新しいムーブメントの開拓を意識するようになった。
そして、その方向性を大胆にもパンク路線に踏み切ることになる。それは新宿ロフトでのふとした雑談から始まった。
当時、私は焦りまくっていた。前月まで動員が10名以下だった若手バンドが、テレビかなんかに出て突然ヒットすると、翌月にはもう平気でスケジュールをキャンセルしてくる。経営者としても、頭を抱える日々だった。
1979年に入る前後だっただろうか、どんなに頑張っても新宿ロフトのスケジュールが埋まらなくなった。確かにその頃、メインカルチャー・シーンとは別のところで、ロンドンやニューヨークからやってきたパンクが日本に上陸し、細々とだがそのシーンを形成しているのは知っていた。しかし、ニューミュージック育ちの私たちはほとんど興味がなかった。
さらに巷では、パンク・バンドの奇行が噂されていた。○○がステージで全裸になった、○○に機材を壊された、○○が麻薬で捕まった……。都内のほとんどのライブハウスはパンク・バンドを敬遠していた。
私の記憶に間違いがなければ、当時の日本のアンダーグラウンドなパンク・シーンの中心だった東京ロッカーズの連中(リザード、フリクション、S-KEN)が初めてロフトに出演したのは、その前年である1978年、下北沢ロフトだったはずだ。
興味本位で私も観に行った。それほどお客が入ったわけではなかったが、音楽性は意外としっかりしていて、私はパンク・バンドの評価を若干変えた。しかし別に、それらのバンドにぶっ飛んだわけではなかった。ぶっ飛ぶのはその随分あとの話だ。
話を元に戻そう。1979年はセックス・ピストルズのシド・ヴィシャスが死に、江戸アケミ率いるじゃがたらが活動を開始した年だ。繰り返すが、ロフトのブッキング陣はスケジュールが埋まらず困り果てていた。
そんなある日、写真家の地引雄一、建築家の清水寛(当時、S-KENのマネージャーをやっていた)が分厚い企画書を持ってロフトの事務所へやってきた。「どうでしょう。この8月の夏休み、全国から40バンドほど集めてパンクのお祭りをやりたいのですが……」と二人は言う。「いわゆるパンク・バンドは、全国にたくさんいるはず。この際、一挙にみんなへ声をかけたい」という。