久米が考えていた「新しいニュース番組」、そのコンセプトとは
新しいニュース番組の企画は、僕とオフィス・トゥー・ワンのスタッフが『久米宏のTVスクランブル』の企画会議をしながら、ずっと思い描いていたことだった。
実際、二つの会議の主要メンバーは基本的に同じ顔ぶれだ。『ニュースステーション』の原型となる企画を練る会議は、『TVスクランブル』の企画会議と並行して、1984年夏ごろから週1回のペースでひそかに進められていた。
『TVスクランブル』自体、未来のニュース番組につながるステップボードのような役割を果たしている。僕が考えていたのは、まず「中学生でもわかるニュース」だ。
たとえば専門用語などを使わず、逐一わかりやすい言葉に言い換える。テレビの視聴体験は音声情報だけのラジオと異なり、映像からの視覚情報に9割の神経が費やされる。残りの1割で言葉の内容をちゃんと理解してもらうためには、難しい言葉や複雑な内容は盛り込めない。
中学生が理解できれば、ほとんどの人にわかってもらえるはずだ。逆にいうと、中学生が理解できないのなら、ほとんどの人はわからないだろう。ニュースを見ている大人はなんとなくわかった気になってはいるが、本当のところは理解していないのだ。
当時は「女性と子どもはニュースを見ない」と言われていた。しかし『TVスクランブル』で僕が学んだことは、ニュースに対する子どもたちの優れた理解力と直感力だった。ニュースを伝える人間が本気かどうか、本当のことを言っているかどうか、彼らにはごまかしが利かない。
新しいニュース番組は「ニュースを伝える立場」ではなく、「ニュースを見る側」に立つことを第一とした。取材経験のない41歳の軽薄なタレントが仕切るニュース番組だ。中学生ならこのニュースを見てどう感じるか、どこに疑問を持つか、どう伝えれば面白いと思うか、そんな素朴な疑問や発想を出発点にしたかった。だから僕の役割はキャスターというよりも、視聴者代表の司会者だと考えていた。
大事なのは「テレビ的なニュース」にすることだった。それまでのニュースは原稿主義、つまり原稿の中身をしっかり書くことが最優先され、映像はその添え物という位置づけだった。それでは活字からなる新聞記事と本質的には何も変わらない。
テレビが面白いのは生きている人間がそのまま映っているからだ。出演者の髪型から服装、癖や表情、語り口。それらが見ている者の皮膚感覚に訴える。この皮膚感覚こそがテレビと他の媒体との決定的な違いだろう。
テレビで伝える限りは、その最大の持ち味である生放送の魅力を生かし、映像先行のニュースにしなければ意味がない。だから出演者と同時にセットや小道具、カメラワークも視覚的に心地よいものにしなければならない。
そして何度も言うように、テレビにはエンターテインメントの要素が不可欠になる。それはニュースを軽視することではない。エンターテインメントのもともとの意味が「もてなす」であるように、不特定多数の視聴者を対象とするテレビというメディアは、誰もが理解できて楽しめるという要素がなければ成立しない。
ニュースに優劣はない。選挙結果もニュースなら、最新ヒット曲もニュースだ。だから新しいニュース番組には、ゲストに自民党の幹事長も呼べば、来日中のハリウッドスターも呼ぶ。それは『ザ・ベストテン』『TVスクランブル』から変わらぬ一貫した考えだった。