「大変なことをしないと変わらないんですよ!」
「西武の球団代表だった坂井(保之)さん」
巨人とは当時、球界の盟主の座を争っていた西武の幹部である。
「球団は違っていたんだけど、あのころ、俺はプロ野球機構の福祉委員会の代表だったんだよ。それでよく要望を出していて、坂井さんとは交流があった。坂井さんは理解があって、先進的な考えを持っていた。西武は管理が厳しいと聞いていたけど、坂井さんなら、わかってくれると思って話したら、同調してくれたんだ。今のままではプロ野球界はだめになると危機感を持っていたね」
坂井は球団の枠を超えて野球界全体のことを考える発想を持っていたというが、それは彼の半生を調べると、頷首できる。
1960年代、坂井は岸信介元首相の書生をしながら、PR会社に勤務していた。そんな折、東京オリオンズが親会社の大映の経営不振から、ロッテに球団譲渡された。大映の永田雅一会長は新球団のオ-ナーについて知己の深かった岸に相談すると、岸は自分の筆頭秘書であった中村長芳を送り込み、坂井もまた補佐としてロッテのフロントに入ったのである。
言うなれば出発点が身売りされた球団であり、いきなりカオスからプロ球界での経営者人生が始まっている。以降、いくつもの球団を渡り歩いて、坂井はその存在感を発揮していく。
西鉄がライオンズを手放したときは、中村とともにロッテから移籍し、新球団の福岡野球株式会社(中村が個人で設立した会社で、ゴルフ場開発の太平洋クラブのネーミングライツで太平洋クラブライオンズとなる)の社長に弱冠38歳で着任して難局を乗り切った。
やがて西武グループへの身売りが決まると所沢に移り、西武ライオンズの黄金時代を築き上げ、東尾、田淵、秋山、工藤、伊東、清原、渡辺といった常勝軍団の選手たちとの契約更改を直接一手に引き受けていた。
坂井は予算規模の異なる球団でキャリアを重ねた経営のプロであると同時に選手の置かれた環境も熟知した人材育成者でもあった。そして坂井は「プロ野球はこの国の公共財」という確たる信念を持っていた。
「その坂井さんが、俺に言ったんだよ。『それはいい考えだが、もしも選手の組合を日本でやったら、大変なことになるぞ』って。だから俺は『その大変なことをやりたいんですよ。大変なことをしないと変わらないんですよ』と返したんだよ。じっちゃんと坂井さんに相談しながら進めたんだ」
長谷川はたたき上げの社会部記者上がりで読売一筋、坂井は「昭和の妖怪」こと岸信介の下で政治手法と複数球団を渡り歩いた球団マネージヤー。ジャンルの異なる二人の理解者に相談しながら、中畑は動き出した。
文/木村元彦