♯2  高校バスケの名門・能代工で田臥・若月・菊地と「5人中3人が1年生」。当時監督・加藤三彦が明かす“レギュラーから上級生を外した”真意 はこちら

「下級生主体」だった96年の能代工

26年前、能代工にいた「リアル桜木花道」。バスケは下手でもリバウンドが武器…田臥勇太が語る“2つ上の主将”とは?_1
能代工1年時の田臥勇太 ©Aflo
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高校入学を控えていた1996年1月。中学3年生の菊地勇樹は、この年、最初の公式戦となる新人戦の秋田県大会で、自分が進学する能代工の試合を観戦していた。

「お前が入学する学校は、この程度だよ」

菊地に耳打ちしたのは、能代工のエースガードとしてインターハイ、ウインターカップの「2冠」に貢献し、前年に部活を引退した直後の半田圭史だった。

能代工はこの時点で全国大会を制すること41回。高校バスケットボール界の頂点に君臨する同校にとって、県大会は勝って当然。なにより強さの堅持が求められていた。それが、県大会では優勝したとはいえ接戦続きで、東北大会では福島工に71-78で敗北していた。

「僕たちの学年はコンスタントに試合に出られる選手が少なくて、実力が足りないということはずっと抱えていた問題でした。成績が振るわなかったし、『不甲斐ない』という気持ちはずっとありました」

そう回想するのは、当時のマネージャー、金原一弥だ。

能代工にはひとつの「定説」がある。試合にエントリーするメンバー15人の構成が、3年生、2年生、1年生5人ずつならばその年は「安定している」とみなされ、バランスが崩れれば「弱い」と判断される。

26年前、能代工にいた「リアル桜木花道」。バスケは下手でもリバウンドが武器…田臥勇太が語る“2つ上の主将”とは?_2
能代工「1996年世代」のマネージャー・金原一弥さん

この年、新3年生となる金原たちの世代は、そのバランスが極端に偏っていた。新人戦の時点で1学年下の代が圧倒的に多かったのである。

能代工には毎年40人ほど、多ければ60人もの新入生が入部する。全国屈指の名門では努力することは当たり前で、レベルの高さや練習の過酷さに打ちのめされて退部する者も多い。生き残ったとしても、チームには「替えが利く選手」ばかり。圧倒的なスキルやプレースタイル、身長の高さなどの特徴に秀でていない限り、「その他大勢」に分類されてしまう。