宮原知子(24歳、木下グループ)は、日本人女子フィギュアスケート選手として格別の経歴・実力の持ち主である。
全日本選手権4連覇は輝かしい記録であり、11大会連続で6位以上という記録も傑出している。
グランプリファイナルでは2度にわたって2位に入り、世界選手権には5度出場して2度表彰台に立ち、4度出場している四大陸選手権では優勝の経験がある。2018年の平昌五輪では、日本人最高の4位という成績を残している。
その実績は目覚ましい。しかし記録以上に「記憶に残る表現者」と言える。
記憶に残る精魂込めたプログラム。「鍛錬の人」宮原知子はフィギュアの歴史になった
フィギュアスケートの現場取材ルポや、小説も手がけるスポーツライターの小宮良之氏が、スケーターたちのパーソナリティを丹念に描くシリーズ「氷上の表現者たち」。第2回は3月26日に引退を発表した宮原知子のスケーター人生に迫る。
氷上の表現者たち#2
スケーターとしての“終わりの風景”

宮原の美しいスパイラル(写真/AFLO)
氷の上に立った時、全身から気品が横溢し、仄かに匂い立つ。荒々しいまでの「ジャンプ時代」に突入するフィギュア界で、彼女だけは徹底的に滑りを研磨させてきた。
スピンの回転速度は落ちず、ステップは音を拾う。まるで彼女自身が一つの楽器のようになり、指先にもうひとつの命を宿したようになまめかしく動かし、リンクに物語を再現した。
しかし、物語には必ず終わりがある。
2022年3月26日、自身の誕生日に現役引退を発表した宮原がフィギュア界に残したものとは。
2021年12月の全日本選手権、宮原はフリースケーティング(FS)で『トスカ』を優雅に演じた。戦時下の人気歌手の悲恋を描いた物語を体現し、一つの集大成に近かった。
ただ、大会前のインタビューで彼女はこう明言していた。
「このプログラムを作り始めた時、すごく気に入った感触があったし、“オリンピックで滑りたいな”っていう気持ちが出てきて。オリンピックという区切りを考えた時、平昌(オリンピック)からの4年間をひとまとめというか、自分を表したプログラムになればいいなって思っています。ただ、『集大成』って言われると、少し大げさで。いつスケートをやめるかまだ分かっていないので、言いきれないかなって(苦笑)」
集大成という言葉は、ひとつの終焉を意味する。それだけに使いたくなかったのだろう。当時、宮原は心中に生じた迷いと向き合いながらも、先を見ていた。
――スケーターとして“終わりの風景”は見えていますか?
単刀直入に聞いた時、彼女は毅然と答えていた。
「ずっと滑っていたい、というのはないです。でも、まだ終わりは見えていない。今は考えられないですね」
しかし、全身全霊で挑んだ全日本で『トスカ』にすべてを込められたのだろう。スコアは思うように出ず、北京五輪代表の座を逃すことになったが、一つの境地に辿り着いた。
「全日本が終わった直後は、その後の結果(代表発表)が出るのも一日後でしたし、すぐに(引退を)決めたくはない部分もあって。あの時はまだ“自分の中だけにとどめる”って感じでした。ただ、演技が終わった瞬間に“一個(3回転ルッツを)失敗したので、これはもうないな“と思って。それと同時に“失敗はあったけど感覚的に楽しんで雰囲気を味わって自分の足で滑れた、これで終われる”と、(決めたくないのと終われるというのが)両方ありました。自分の中ではそこで(引退を)決めたと言っていいのかもしれません」
「これまで以上に自分と向き合い、全身全霊を尽くし、練習を重ねて日々を過ごしてきました。そして大会本番、すべての力を注ぎ、戦うことができました。悔いはありません」
この時、彼女は終わりの風景を見たのだ。
結果よりも大事にしてきたこと
4歳の時、彼女はフィギュアスケートに出会った。
「自分の中では一歩目を滑れた時、その感触が良かったのは覚えています」
宮原そう言って、原点を振り返っている。
「でも、初めて滑った時より、貸し靴ではなく自分の靴を最初に履いた時にワクワクしていましたね。言葉で言い表すのは難しいんですが、小さくジャンプする、気持ちが弾む感じで。たしか水色の衣装で、“自分がスケートしている!”というのがすごく楽しくて。(両親に対して)『貸し靴じゃ嫌だから買って』ってせがんだらしいんですけど(笑)。あまり記憶にないんですが、一度滑ってから、すぐに欲しかったみたいです」
彼女はその日から滑ることを、ずっと大事にしてきた。
「最初は、“こんなに滑れるんだ”っていうのが単純に嬉しくて。そして“できるようになったんだよ”というのを誰かに見せたくて。ずっと滑っていたのかなって思いますね。他にも習い事はしましたが、スケートみたいに“これ”って思ったことはなくて。スケートを始めて経験したワクワク感の強さは特別で、ほかの何にも負けませんでした」
宮原は、誰よりも練習をする選手になっていった。まるで「氷上の住人」のようにリンクで長い時間を過ごした。その代償というべきか、2017年には左股関節疲労骨折を経験している。結果、しばらくは練習量を強制的に制限しなければならないほどだった。
「試合では緊張があって、練習の時のように滑れない」
宮原はしばしばその悩みを語っているが、完璧に仕上げても満足できない、ある種の強迫観念があるのだろう。生真面目で律儀な性格で論理的思考が身についているせいか、そうやって自身を必要以上に追い込んでしまうところもあったのかもしれない。
試合はどうやって割り算で答えを探しても、余りが出てしまうもので、たいていの人がどこかで折り合いをつけるが、彼女は”手を抜く”ことができず、それが緊張にもつながった。
ただ、割り切れないまでトレーニングに打ち込んできたおかげで、競技者として「ノーミスの女王」と呼ばれ、表現者の域に辿り着いた。
「自分の場合、“試合でこの選手に負けたくない”“結果を出したい”よりも、“こういう演技したい”、“これだけやってきたことをしっかり本番でも伸び伸びできたら”と思って演技した方が、自分らしい滑りができていると感じるので。競争心よりもスケートに対する『好き』って本当の気持ちを出したほうが、自分らしく滑れると思います」
彼女はそう自己分析していた。一皮むけば、スケートに夢中になった少女のままだった。
しかし、そのスケート人生は成熟し、太い芯が通っている。江戸時代に厳しく躾けられた上級武士の娘のように、自分を律した言動が目を引く。可憐な容姿の裏に、高潔なる気骨が見える。自らの迷いを払拭するほどまで肉体を鍛え上げられる一途さが、彼女の演技をたおやかにした。
――宮原知子の自伝を出版するとして、タイトルを二文字でつけるなら?
好奇心で訊いた質問の答えは、彼女らしかった。
「えー・・・。『鍛錬』とかですかね。でも、鍛錬だと苦しい、辛い意味が入ってきちゃうので、本当に厳しい、しんどい練習も自分は苦ではなくて。そういう時、“スケートが好きなんだな”って思います」
インタビューをするたび、独特の感性が光る。難しい、角度を変えた質問にも、彼女は少しも淀みなく、すらすらと答えることができた。日ごろから自分自身と向き合っているからこそ、だろう。
――スケートに出会った4歳の知子ちゃんにタイムマシンで会えるとしたら、なんと声を掛けますか?
その質問にも、宮原は奥ゆかしい笑みを浮かべ、自然な様子で答えていた。
「『こんなに楽しいことを見つけてくれてありがとう』って。なんて返してくるか? んー、『そんなに楽しいの?』って(笑)。性格はシャイで、内弁慶な子で、当時は教室でもかなり変わっている生徒でした。先生に『みんなで手をつないでやりましょう』って言われても、誰とも手をつながず、全然違うことを一人でやる感じで。たぶん、自分のやりたいことがあって、それをしたかったんだと思いますが」
己自身がそれを決め、従い、そこで手を尽くす。周りが驚くほどの鍛錬によって、作品として違いを示し、彼女だけの世界を作り上げた。
「自分には厳しいほうかもしれません」
選手としての幕を下ろした後、彼女は健やかな笑顔で言った。
「それがなかったら、もう少し気楽に試合できたかなって。ただ、完璧さを求めすぎたのはあるかもですが、それが自分の特徴だったのかなとも思います。0か100か、でしかできない選手で。ちょっとできるし、大丈夫かなで入って、いけるやろ、というのもあっていいのに、自分の場合、絶対にできる確信がないと(試合で)できない。そこがいいところで(もあり、)弱点でもありました」
精魂込めたプログラムは唯一無二だった。それは人々の記憶に残る。フィギュアの歴史の一部だ。
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