テニスの“聖地”ウィンブルドン(正式名称は、All England Lawn Tennis and Croquet Club)から、15分ほど急勾配の坂を登り切ると、そこは“ウィンブルドン・ビレッジ”と呼ばれる、瀟洒なカフェやレストランが立ち並ぶエリアである。多くの選手たちも食事のために足を運ぶこの一角は、大会期間中、店頭の装飾がウィンブルドン一色に染まることでも有名だ。テニスボールやラケットを飾ったり、果てはオリジナルマスコットまで作ったり。創意工夫も年を重ねるごとにエスカレートし、今では町そのものがテニスのテーマパーク状態である。
そのビレッジの中でも、大通りの中央に座する『Dog& Fox』は、テニス関係者の間で世界一有名なパブだ。
テニス選手との遭遇率100%⁉ “聖地”ウィンブルドン「勝ちメシ」
世界中を旅して戦うテニス選手たちが、“勝ちメシ”求め足しげく通う店。今回は、大会が終わったばかりの“テニスの聖地”ウィンブルドンの名店を紹介しよう。いずれの店にも、ハートフルな物語や、歴史に裏打ちされたエピソードの数々が⁉
勝ちメシを追う旅
選手や関係者が集う、テニス界隈では世界一有名なパブ

こちらが、『Dog&Fox』。音楽の流れる店内も賑わうが、夏場の人気はテラス席
今大会の女子ベスト8進出者のアマンダ・アニシモバは、次の対戦相手の試合を観たかと会見で問われ、「見てたよ、『Dog& Fox』のテレビで」と応じて記者たちを笑わせた。
さらにアニシモバは試合で敗れた日の夜も、元コーチのダレン・ケイヒルと共に同パブを訪れていた。ケイヒルが、新鋭ヤニック・シナーのコーチ就任を公にしたのは、その翌日のこと。自分が直近まで見ていた選手に、次の“就職先”を報告していたのかと思うと、なかなかに趣き深いシーンである。
今年の男子準優勝者のニック・キリオスも、『Dog & Fox』の常連として知られる一人。そのキリオス、会見の記者席に見覚えのある顔を見つけ、「あれ、昨日パブに居た人じゃん! うわー、恥ずかしいでしょ?」とイジッったこともあった。果たしてその記者氏が、パブでどんな恥ずかしい姿を見せたかは不明。ただ、選手も関係者もタガが外れがちで、しかもその姿を知り合いに見られる可能性もある、危険な場所であることは間違いない。
店頭ディスプレイが独創的なタイ料理屋は、著名選手が集まる超人気店
この『Dog&Fox』と並ぶビレッジの人気店が、数件隣に位置するタイ料理屋『Thai Tho』である。料理の美味しさも去ることながら、店頭のディスプレイに、ひときわ気合いが入っていることでも有名だ。数年前は、タイの密林をイメージしたエキゾティックな植物や蔦が店を覆い、どこが入口か分かりにくかったほど。
さすがにこれは行き過ぎたと反省したか、今年は熱帯のイメージはそのままに、爽やかな藤の花で店頭がデコレートされていた。さらには、今年即位70年を迎えるエリザベス女王の朗らかな笑顔が、素通りを許さぬ威光を放つ。

これが今年のディスプレイ。テーマに統一感はないが、ある意味、この雑多さが魅力
さて、これは5年前――やはり素通りできず、『Thai Tho』の扉を開けた日のことである。
入った後に気付いたのは、まだ開店前だったということ。それにも関わらず、笑顔がチャーミングなレストランのオーナー氏は、「飲み物だったら出せるから、厨房が開くまで、座って待っていたら?」と提案してくれたのだ。
そのご厚意に甘えて店内に入らせて頂くと、「日本の方?」と、こちらも素敵な笑顔のアジア人女性が尋ねてくる。その方が、オーナーの奥様。「はい、日本からです」と答えると、タイ人の奥様とイギリス人のご主人は、日本を旅行した時の思い出を、臨場感たっぷりに語り始めた。
東京では、満開の桜を見て感激したこと。静岡では、座敷の襖を開けたら目の前に富士山の威容が姿を現す、素敵な旅館に宿泊したこと。奈良では鹿に追い回されたこと……。
それらを瑞々しく表現するご主人の語り口に感心していたら、なんとその方、かつてBBCの人気ドラマ『ドクター・フー』に出演し、その後は旅行番組のレポーターを務めた、エイドリアン・マイルズという名の俳優だという。それは立て板に水なはずだ……。

こちらがレストラン経営者にして俳優のエイドリアン・マイルズ氏。昨年撮影
ご主人の話に引き込まれつつ店内を見渡すと、壁という壁にところ狭しと、選手のサイン入り写真が並ぶ。ロジャー・フェデラーにラファエル・ナダル、アンディ・マリーにセリーナ・ウィリアムズ。
「これらの選手たち、全員来たんです?」と聞くと、「もちろんだよ! アンディは毎年のように来てくれるし、スペインの選手たちも良く来るよ」との返事。そしてオーナー氏は、10年以上前のある年、ふらりと店を訪れ、牛肉のチリ炒めと卵チャーハンを食べた若い女子選手の話を始めた。その子は、初めてお店に来た翌日に勝利。その後もたびたび店を訪れ、そのたびにゲン担ぎのように、同じメニューを頼み続けたという。
「あの子、また勝ったね」と夫婦で話しているうちに、あれよあれよと気づけば彼女は頂点へと駆け上った。当時17歳の長身のその少女こそが、マリア・シャラポワだったという。

店内に飾られている、17歳のシャラポワとオーナー夫人の2ショット
なお、超有名人となったシャラポワは、店を訪れるのは難しくなった後も、デリバリーオーダーをしてくれたという。もちろんお気に入りは、思い出の牛肉のチリ炒めだ。
そんな訳で今年もこのタイ料理屋で、シャラポワの“勝ちメシ”と、1992年チャンピオンのアンドレ・アガシが愛した、グリーン・カレーを食した。
牛肉のチリ炒めは、肉のうま味がたっぷり染み出たタレと、パラっとした触感のタイ米が相性抜群。グリーン・カレーは、ココナッツミルクの甘味とコクが辛さを適度に中和し、料理全体にマイルドな統一感を生んでいた。

こちらがシャラポワの“勝ちメシ”。やや濃い目の味付けと、野菜のシャキシャキ触感がマッチする
昨年の同時期は、コロナ禍で選手たちは外食が許されなかったこともあり、客足は寂しかったという。それが今年は「6時間の営業時間内で、全席を3回はローテーションしなくちゃいけないよ」と、オーナー氏は嬉しい悲鳴を上げた。もっとも、ロシア侵攻の影響で「食材の価格高騰が凄まじい。料理油は3倍になった」と、悲痛な声も上げていたが……。
悲喜こもごもの人間模様が交錯し、大会の動向も左右するほどのドラマが日々生まれては、消える街角――。
今日もまた、喧騒とカクテル光線が夕闇を照らすウィンブルドン・ビレッジの一角で、新たな物語が紡がれ始める。
新着記事
『こち亀』界きっての凡人、寺井洋一!




韓国映画創世記の女性監督を探る心の旅を描く 『オマージュ』。シン・スウォン監督に聞く。

【暴力団組長の火葬】「おじきは強い男やったんや! そんな小さいしょうもない骨入れんな!」若頭の一言に一流葬場職人になるための試練が…(7)
最期の火を灯す者 火葬場で働く僕の日常(7)

