2023年3月、さいたまスーパーアリーナ。
「上がれるところまで上がる」
渡辺倫果(20歳、法政大学/TOKIOインカラミ)は、15位と出遅れたショートプログラム(SP)演技後、挽回を誓っていた。落胆は激しく、涙声を振り絞っていたが、口から出る決意には妙なおかしみもあった。
「獲物を見つめる虎のように、虎だかチーターだかわかりませんが、そうなれるように頑張ります!」
彼女はフリースケーティングに向け、そう宣言していた。
中学生のとき、深海生物のダイオウグソクムシが6年間も断食しても生きられることを知って、すっかり虜になったというエピソードは作り話ではない。独特な感性だ。
そして、フリー『JIN-仁-』でスタートポジションを取ると、顔つきが変わった。
トリプルアクセルは失敗したが、尻上がりに精度を上げた。得点が1.1倍になる演技後半に高難度の3回転ルッツ、ダブルアクセル+オイラー+3回転サルコウを成功。131.34点で7位、総合順位も10位まで上げた。
「また、この場に戻ってきます! 次は世界トップを目指せるように」
渡辺はそう言い残し、シーズンを戦い終えた。フリーでの反転攻勢、それは1年間を通じ、代名詞になった。
遅咲きのシンデレラのみずみずしさと葛藤とは――。

“スピード出世”を果たした渡辺倫果ーシンデレラストーリーの裏にあった涙と葛藤
フィギュアスケートの現場取材ルポや、小説も手掛けるスポーツライターの小宮良之氏が、スケーターたちのパーソナリティを丹念に描くシリーズ「氷上の表現者たち」。第12回は、今シーズン才能を大きく開花させた渡辺倫果。そのシンデレラストーリーの裏側にあった葛藤とは?
氷上の表現者たち#12
「また、この場に戻ってきます!」
才能開花の背景にコーチの言葉
2020-2021シーズン、シニアへ転向した渡辺は、全日本選手権に出場した。しかし、失意の27位に終わった。ジュニア時代、2回出場していたときより10近く順位を下げた。
この時点で、「世界」は遠かった。
それが2021-2022シーズン、東日本選手権でSP、フリーをまとめて1位に輝く。
全日本選手権ではそうそうたる選手たちと肩を並べ、6位入賞。スピン、ステップと技術の高さを見せ、得意のトリプルアクセルも成功し頭角を現した。
「過去の自分を超える」
そう言って、自身と向き合ってきた彼女の道が開けた。
伸び悩んでいた彼女にとって、ひとつの転機があった。コロナ禍によって拠点としていたカナダから戻り、2021年夏からMFアカデミー中庭健介コーチの指導を受けている。
渡辺は本番での失敗の恐怖が課題だったが、中庭コーチから「怖いという感情を自ら呼び起こしている。怖いと思ったら、逆に普通に跳べているときのことを思い出せ」と言われ、メンタル面から変わった。
肯定的にジャンプに取り組めるようになり才能が開花した。
2022-2023シーズン初戦のチャレンジシリーズ・ロンバルディア杯ではトリプルアクセルという伝家の宝刀を抜き、213.14点と大台に乗せて優勝した。
シニア女子の日本歴代6位(2018-2019シーズン以降)の記録だ。全日本6位はフロックではなかった。
その直後、東京選手権は記録達成の疲れを引きずったか。SPは54.69点と点数は伸びなかった。
「(ロンバルディア杯が)終わって、日本に帰ってきて1週間とちょっと。疲れが残っていることもあって、(SPで)アクセルは回避しました」
渡辺は演技後に振り返った。
「でも、それが仇となって違う方向に考えがいってしまいました。アクセルに集中していたからこそ、ほか(のジャンプ)を怖がらなかったんです。メンタルの問題で」
フリーでは果敢にトリプルアクセルに挑戦し、転倒した。しかし、その挑戦心のおかげでジャンプの成功率も上がる。練習で失敗の確率を下げ、本番で失敗を恐れない。それが太い芯になった。
GPシリーズ初出場・初優勝
積極的姿勢が幸運を引き寄せたか。北京五輪団体の銅メダル獲得に貢献した樋口新葉がケガを理由に休養に入ったため、渡辺はグランプリ(GP)シリーズのスケートカナダ、NHK杯の出場機会を得ることになった。アスリートの世界は、運も実力の内だ。
スケートカナダで渡辺は、初出場で初優勝を飾っている。SPは6位スタートも、上位とは僅差。フリーはトリプルアクセルに成功し、勢いに乗った。134.32点を叩き出し、痛快な逆転優勝だ。
続くNHK杯もSPではミスが相次いでいる。しかし腹を据えたフリーは強く、3位のスコア。挽回及ばず総合5位だったが、ここでも運を味方にGPファイナル出場圏内に滑り込んだ。
そして勢いは衰えない。GPファイナルも4位と大健闘。遅咲きのシンデレラはみずみずしく、はつらつと輝いた。
当然のごとく、全日本選手権でも優勝候補の一角に名前が挙がった。世界女王の坂本花織の牙城は高かったが、2番手に食い込む可能性は感じさせていた。たった1年で瞠目すべき躍進だ。
ただ、全日本は「魔物がすむ」と言われるほど、勢いのある挑戦者を飲み込む場でもある。
「悪い意味で、気負いすぎて。ファイナルは出場しましたが、全日本はまた違いました」
渡辺はそう振り返っている。SPは18位と思いのほか出遅れた。
「前は力むくらいで跳んでいたんですが、最近は力を抜かないと跳べなくなって。6分間練習では、流して跳べていたんです。
でも今度は流して飛ぶことにとらわれてしまった。変な、嫌な緊張というのがありました。調子よくできてしまっていただけに、その感覚に頼りすぎたというか」
「這い上がっていけばいい」と気持ちを入れ替え、フリーではトリプルアクセルを成功させた。彼女らしい“失地回復”である。
ただ、ルッツの失敗などが響き、大きく巻き返すことはできなかった。フリーも9位にとどまり、総合12位に終わっている。
「弱さが出ました。出ないように練習する必要があって。その意味では自分には伸びしろしかないです」
渡辺は決意を口にした。シーズン全体の成績が評価され、四大陸選手権と世界選手権の出場も決まった。
四大陸では、やはりSPで出遅れた。しかしフリーで自己ベストを叩き出し、逆襲を展開。彼女らしいドラマで、5位に入った。

全日本選手権フリーの渡辺倫果
「世界選手権は五輪以外では最高峰の戦いだと思うので、どこまで通用するか、ベストの演技でいけるところまでいってみたいです。ピークを持っていけるように頑張れたらなと」
渡辺は虎視眈々だったが……。
「スピード出世」の裏側にあった葛藤
今年3月の世界選手権。渡辺はSP演技直前、じっと目をつむり、その場にいられる愉悦を感じていた。
「いつか見たい」。そう願っていた景色が目の前にあったはずだ。
冒頭のトリプルアクセルは悪くない回転軸だったが、着氷で失敗した。続くルッツは回転がほどけてしまった。
現地に入ってから、SPの軌道でのルッツがはまらない現象が起きていた。練習での不安がそのまま表に出た。最後に予定では単独だったループのセカンドに急遽3回転トーループをつけて意地も見せたが、得点は60.90点と伸びず、15位と厳しいスタートになった。
演技後、彼女は赤く目をはらしていた。取材エリアに出て来るのに時間がかかったのは、しばらく涙が止まらなかったからだ。
――涙の理由は?
記者に聞かれた彼女は、気持ちが波立つ中でも論理的思考をフル稼働させ、こう返している。
「目標にしていたものをできなかった悔しさかなと。そこで温かい歓声や拍手を受けて…。自分の中でも、ジャンプは決まらなくても最後まで滑ることができた思いはあるんですが。だからこそ、複雑なところで」
世界選手権までたどり着いただけでも、ひとつの成功と言えるだろう。
「スピード出世」
渡辺は世界選手権出場まで駆け上がってきた軌跡について、独自の表現をしていた。達成感や喜びと同時に、アジャストしきれない葛藤もあったのだろう。それが成績の波になったし、後半戦に入って消耗からパワーダウンした。
「1年半も経たないうちに、新人のペーペーから部長まで出世した感じで。よくも悪くも、こんな景色を見られると思っていなかったです。
この場(世界選手権)にいられるのはありがたいことなので、この経験をどうにか活かせるように」
そう語っていたフリーでは、いつものように巻き返し7位と健闘。スピン、ステップとすべて最高難度のレベル4で、『JIN-仁-』の世界観を氷の上に再現。総合は10位だった。
1年少し前の自分と、ギャップがないはずはない。加速度的成長を自分の中に落とし込む時間は必要だろう。経験のおかげで、悪い流れをリセットできたり、短い時間でも修正できたり、競技者として幅が出るところはある。
ただ、うまくいかない中でも軸は揺らいでいなかった。
「フィギュアはジャンプだけで決まるわけではなくて」
世界選手権のSPでジャンプの失敗が続いて、「気落ちしなかったか?」と質問を受けた渡辺は、涙で目を腫らしながらも毅然と答えていた。
「フィギュア自体、芸術というか、作品なので。その世界を壊さずに、まとめ上げるのが大切だと思っています。
ジャンプが得点源なのは間違いないし、悔しさはありましたが、スピンの出来次第では、ジャンプの分も取り返せたりするし。(ジャンプ失敗が)諦める理由にはなりません」
何気ない証言に、渡辺の肖像が浮かぶ。粘り強くフィギュアスケートを追求し続けてきた人生に原点はあるのだろう。その矜持というのか。
巻き返しの物語は、ひとつのスペクタクルだった。みずみずしさと葛藤のシンデレラストーリーには、まだ続きがある――。
文/小宮良之
写真/AFLO
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