国見、早稲田、F・マリノスでもキャプテン。「考えるマルチロール」兵藤慎剛が意識していたコミュニケーション法
1月26日の発売後、即重版が決定した二宮寿朗『我がマリノスに優るあらめや 横浜F・マリノス30年の物語』。誌面の都合もあり、書籍には掲載できなかったものの、F・マリノスの歴史に欠かすことのできないOBの特別インタビューなど、「我がマリノスに優るあらめや 外伝」特集としてお届けする。今回は、F・マリノスでのリーグ出場268試合、国見高校、早稲田大学、F・マリノスでキャプテンを務めたレジェンド、兵藤慎剛さんのマリノス・ストーリー前編。
国見高校、早稲田大学……
キャプテンとして全国優勝してきた
兵藤慎剛は「考えるマルチロール」である。
チームがどうすれば良くなるか、どうすれば勝つか、自分はそのために何ができるか――。トップ下、サイドハーフ、ボランチと中盤のあらゆるポジションをこなし、リーダーシップを発揮しつつチームの模範として先頭に立つ。
2008シーズンから9シーズンにわたって横浜F・マリノスに在籍し、このクラブにおけるリーグ戦出場268試合は、中澤佑二(510試合)、松田直樹(385試合)、中村俊輔(338試合)、栗原勇蔵(316試合)、上野良治(287試合)に続く6番目の数字だ。クラブの歴史を支えた一人だと言っていい。
〝名門〟には縁がある。
長崎・国見高校で全国高校選手権、インターハイ、全日本ユース選手権の3大タイトルを獲得し、東京都リーグに降格していた早稲田大学ア式蹴球部に入部すると、関東大学1部リーグまで引き上げて、4年時に制したインカレでは得点王&MVPに輝いている。いくつかのJクラブが獲得に手を挙げるなか2008シーズン、運命に導かれるかのように横浜F・マリノスのユニフォームに袖を通した。
プロ入りは平山相太、中村北斗らと常勝チームを築き上げた国見高卒業後に一度、検討していた。F・マリノスが兵藤に関心を示していたことは本人に届いていなかった。尊敬する小嶺忠敏監督に相談したところ「プロは無理だ」と言われ、大学に進学することを決断したのだ。
ワセダの一員になったちょうど春先、そのF・マリノスから練習参加の打診を受けた。2連覇を成し遂げる2004シーズンのこと。大学の先輩でもある岡田武史が監督として指揮を執っていた日本一のチームは、兵藤に大きなインパクトを与えた。
「練習に参加した感想をシンプルに言えば〝怖い〟でしたね。ネガティブな意味ではなくて、サッカーに対する厳しさがピッチ上に漂っていて、パスが数㎝ズレただけでも舌打ちが飛んできそうなピリついた雰囲気でした。岡田さんは冗談で、『いつ大学を辞めて、ウチに来るんだ』と言ってくれましたけど(笑)」
この環境に身を置けば成長できる――。その後いくつかのクラブに練習参加したが、F・マリノスのことが頭から離れたことはなかった。大学2年時にはU‐20ワールドカップに10番をつけて出場。大学でレベルアップに励み、フィジカルは格段に強くなった。ワセダでもタイトルを獲り、満を持して意中のクラブに飛び込んだ。

2008年11月23日、第32節アウェイでのジェフ市原戦。兵藤(背番号17)はリーグ戦初ゴールをあげ3-0の勝利に貢献。コミュニケーションをとってきた田中隼磨(背番号7)とハイタッチ。(写真/©J.LEAGUE)
ルーキー時代から中澤佑二、河合竜一らに
プロの厳しさを学ぶ
「F・マリノスは僕がサッカー選手を夢見たときから日本を代表するトップクラブでしたし、ヴェルディ川崎と戦った1993年5月15日のJリーグ開幕戦をテレビで観てあこがれを持っていたことも大きかったと思います。最初は試合に出られないかもしれないけど、ここで頑張ることが何よりも自分のためになるという思いが強かった」
晴れてF・マリノスの一員になった。トップ下のポジションは絶対的な存在である山瀬功治のほか、ロペス、狩野健太らと激しく争うことになった。
プロとは何か。考える人はアンテナを広く張って吸収していく。背中で教えてくれた一人が、そのストイックさで知られるベテラン、中澤佑二だった。大学まで大きなケガもなく、練習開始の30分前からストレッチや体幹トレーニングをしてから全体練習に臨んでいたものの、クラブハウスに一番早く到着して念入りに準備している中澤の姿勢を見て「自分はまったく足りない」と素直に思うことができた。
「佑二さんは練習前だけじゃなく、練習後のケアを含めてしっかり体をつくっていくことがルーティンになっていて、1日をどう過ごすかのデザインが確立されていました。ただ、佑二さんだけじゃなく、そういう人たちが多かった。誰かに何かを言われたというわけではなくて、あらためて自分の取り組みが問われている気がしました」
そしてもう一人がキャプテンの河合竜二である。
「ピッチ上で生半可なプレーはしちゃいけないという考え方の最前線にいた人。F・マリノスのピリつく空気感をキャプテンとして大事にされていました」
ある日、2対2のトレーニングで、河合に対して背後からボールを奪い取ろうと「ガシャッとなった」場面があった。何やってんだ、とばかりに河合に詰め寄られたが、兵藤は一歩も引こうとしない。キャプテンとルーキーが一触即発の雰囲気になった。
兵藤は苦笑いでこう振り返る。
「自分のなかでは今でもノーファウルだと思ってます(笑)。僕はボランチもやるのでポジションがかぶるところもあったけど、竜二さんからはきっとまだ認めてもらっていなかった。後ろから思い切り削られたみたいになったことで、『ふざけんな』となったんじゃないか、と。
たぶん、そこで僕が引いたら何も起こらなかった。身をもってプロとしての厳しさを教えてくれたのは間違いなく竜二さん。その根幹にあるものって、やっぱりこのクラブを勝たせるため。だから厳しく、腹を括ってやらなきゃいけないっていうところにつながっていました」
河合は浦和レッズを戦力外になってトライアウトから2004年に加入。まさにパスがズレただけで舌打ちされ、文句を言われた。そこで萎縮しては何も起こらない。強い意志を持たないと、ここでは生き残れないのだと誰よりも肌で分かっていた。
練習後、兵藤は人知れず、涙を流したという。自分は絶対に間違ったプレーをしていない――、その悔し涙だった。だが、そのほとばしる熱こそ河合から評価され、すぐさま距離を近づけていくきっかけにもなった。
伝統を大事にしつつ「すり合わせ」で
チーム力を高めていく
ジュビロ磐田を優勝に導いた桑原隆のもとで再建を図っていた2008シーズンのF・マリノスだったが、低迷を打開するためにルーキーの兵藤にも先発のチャンスが巡ってくる。
とはいえ事態はすぐに好転することなく桑原はシーズン途中で契約解除となり、7月16日のアウェイ、ヴィッセル神戸戦からはチーム統括本部長だった木村浩吉が指揮を執る。すると兵藤はシャドーのポジションで先発に定着し、シーズン後半戦になってようやく勝ち点を積み上げていく。
伝統のピリピリした雰囲気のなかでトレーニングをして、お互いに要求をぶつけながらチームの絆を深めていくのは言わばF・マリノスの伝統。河合とのバチバチもこれに沿ったものだ。だが国見、早稲田、U‐20日本代表でもキャプテンを務めてきた男は、試合に出て発言力を上げていくことができれば、違うアプローチをやっていきたいとも考えていた。
それは、他者への要求や自分の考えをぶつけ合うことを大事にする一方で、「すり合わせ」にもっと割合を増やしていくこと。
「ぶつけ合うことでチームによりいい選択肢を生み出していくのがマリノスの伝統としてあったし、まさにマツさん(松田直樹)がその中心にいました。だから、その伝統を否定するとかではなく、僕の歩んできたキャリアを通じてサッカーはチームスポーツだということが凄く染み込んでいたので、強いぶつかり合いだけではなくてもう少し柔らかい感じでいきたいな、と。
たとえば同じ右サイドには当時、ハユさん(田中隼磨)がいました。まずは先輩であるハユさんから言われたことをやってみる。その後、僕も試合に出る回数が増えてきたところで、『ハユさん、今の場面はこういうプレーをやってみてはどうですか』と伝えていくみたいな。そうやってハユさんとの連係の関係性を高めていけたことで、僕の考えは間違いじゃないと思えました。もちろん、意見を聞いてくれたハユさんだからできたところもあると思いますが。
最初に否定から入ってしまうと次に自分が主張しても納得して受け入れてもらうことが難しい。人間ってそうじゃないですか。『じゃあ一度合わせてみます』と能動的にやってみて、それがダメだった場合に自分の考えも提案できるというもの。練習でそういうコミュニケーションができたら、試合でもできる。逆に言えば練習でできなかったら、試合でもできない。個人的にコミュニケーションはもっと密にやっていきたいと思いました」
兵藤から始まる〝すり合わせコミュニケーション〟の広がり。これには田中をはじめチームメイトも同調してくれるようになる。

2010年12月4日、日産スタジアムでの大宮戦。3年目のシーズン最終節、兵藤(写真前列右端)はキャプテンマークを巻いて先発。この試合が松田直樹や河合竜二、山瀬功治、清水範久、坂田大輔らのマリノス最後の試合となった。(写真/©J.LEAGUE)
3年目でキャプテンを任された激動の2010シーズン
兵藤のリーダーシップはクラブからも評価される。
加入2年目に副キャプテンとなり、〝ミスターマリノス〟木村和司が監督に就任した2010シーズンは栗原勇蔵とともに2人制キャプテンの1人に就任。背番号も「7」になった。そしてチームの大きな変化としては、欧州で7年半プレーした中村俊輔が戻ってきたことだ。
「世界の舞台で戦ってきたシュンさんと一緒にプレーできるのはとても刺激的でした。『そこが見えているのか』とか『そういう選択をするのか』とか現場で感じ取れるので、サッカーって面白いんだなとあらためて思うことができました。僕もプロ3年目になって、ガムシャラにやっていたところから、少し余裕もできたころでもありました」
広島弁で「翻弄する」「弄ぶ」を意味する〝ちゃぶる〟を旗印にした攻撃サッカーを展開していく。3、4点取って爆発する試合もすれば、逆に1点も奪えずに沈黙する試合もある。好不調の差が激しく、結局、この2010シーズンは8位で終わってしまう。
兵藤が入団してから9位(2008年)、10位(2009年)、そして8位と優勝争いに絡めず、2004年にリーグ2連覇を果たして以降はタイトルから遠ざかっている状況。シーズン最後に松田、河合、山瀬ら功労者が次々と契約非更新になったことは兵藤にとっても衝撃だった。
「非情だなと思ったし、これがプロの世界なのかと痛感させられました。痛みを伴っても変革させるということだったんでしょうけど、もしそれでも結果が出なかったら何の説得力もなくなる。クラブは思い切ったことをしたなとは感じました。マツさん、竜二さんたちがチームを離れてこれからどうなるんだろうという思いと、僕らがしっかりやらなきゃいけないという思いと、気持ちとしては半々だったように思います」
河合からは事前に、非更新になることを知らされていた。ショックは拭えないながらも、立ち止まってばかりもいられなかった。
国見でもワセダでもタイトルを獲ってきた。名門F・マリノスが復権を果たせていない現実に、兵藤自身ももどかしく、キャプテンとして責任を強く感じていた。
2011シーズンは5位に、そしてコーチから昇格した樋口靖洋監督のもとで2012シーズンは4位に浮上する。そして優勝を現実目標におく2013シーズンがやってくる――。
(後編に続く)
【プロフィール】
ひょうどう・しんごう/1985年7月29日生まれ、長崎市長崎県出身。
国見高校では全日本ユース、インターハイ、高校選手権を制し、3大タイトルを獲得。国見歴代最高のキャプテンとも評される。早稲田大学に進学し、当時、東京都リーグ所属だったア式蹴球部に入部。在学中は、U-20日本代表として、2005年のワールドユースに背番号10とキャプテンとして出場。最終学年の2007年度にはインカレで優勝しMVPを受賞。
2008シーズンより横浜F・マリノス加入。2009シーズン副キャプテン、2010シーズンは栗原勇蔵とともにキャプテンを務める。2017シーズンに北海道コンサドーレ札幌に移籍。その後、ベガルタ仙台、SC相模原を経て2022年引退。2023年より早稲田大学ア式蹴球部監督に就任。
J1リーグ338試合出場36得点(F・マリノス在籍時、268試合出場32得点)
即重版決定! 『我がマリノスに優るあらめや 横浜F・マリノス30年の物語』

2022年、創立30周年を迎えた横浜F・マリノス。前身となる1972年の日産自動車サッカー部の設立からは、ちょうど50年になった。
Jリーグ創設以来、リーグ制覇5回、一度の降格もないトップクラブとして存在し続ける「伝統と革新」の理由を、選手、監督、コーチなどチームスタッフはもちろん、社長をはじめクラブスタッフまで30名を超える人物に徹底取材。「マリノスに関わる人たちの物語」を通じて描きだすノンフィクション。
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