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国見高校、早稲田大学……
キャプテンとして全国優勝してきた

兵藤慎剛は「考えるマルチロール」である。

チームがどうすれば良くなるか、どうすれば勝つか、自分はそのために何ができるか――。トップ下、サイドハーフ、ボランチと中盤のあらゆるポジションをこなし、リーダーシップを発揮しつつチームの模範として先頭に立つ。

2008シーズンから9シーズンにわたって横浜F・マリノスに在籍し、このクラブにおけるリーグ戦出場268試合は、中澤佑二(510試合)、松田直樹(385試合)、中村俊輔(338試合)、栗原勇蔵(316試合)、上野良治(287試合)に続く6番目の数字だ。クラブの歴史を支えた一人だと言っていい。

〝名門〟には縁がある。

長崎・国見高校で全国高校選手権、インターハイ、全日本ユース選手権の3大タイトルを獲得し、東京都リーグに降格していた早稲田大学ア式蹴球部に入部すると、関東大学1部リーグまで引き上げて、4年時に制したインカレでは得点王&MVPに輝いている。いくつかのJクラブが獲得に手を挙げるなか2008シーズン、運命に導かれるかのように横浜F・マリノスのユニフォームに袖を通した。

プロ入りは平山相太、中村北斗らと常勝チームを築き上げた国見高卒業後に一度、検討していた。F・マリノスが兵藤に関心を示していたことは本人に届いていなかった。尊敬する小嶺忠敏監督に相談したところ「プロは無理だ」と言われ、大学に進学することを決断したのだ。

ワセダの一員になったちょうど春先、そのF・マリノスから練習参加の打診を受けた。2連覇を成し遂げる2004シーズンのこと。大学の先輩でもある岡田武史が監督として指揮を執っていた日本一のチームは、兵藤に大きなインパクトを与えた。

「練習に参加した感想をシンプルに言えば〝怖い〟でしたね。ネガティブな意味ではなくて、サッカーに対する厳しさがピッチ上に漂っていて、パスが数㎝ズレただけでも舌打ちが飛んできそうなピリついた雰囲気でした。岡田さんは冗談で、『いつ大学を辞めて、ウチに来るんだ』と言ってくれましたけど(笑)」

この環境に身を置けば成長できる――。その後いくつかのクラブに練習参加したが、F・マリノスのことが頭から離れたことはなかった。大学2年時にはU‐20ワールドカップに10番をつけて出場。大学でレベルアップに励み、フィジカルは格段に強くなった。ワセダでもタイトルを獲り、満を持して意中のクラブに飛び込んだ。