――住宅地にいきなり牧場が現れるので、驚くかたも多いんじゃないですか?
まぁ、そうですね(笑)。でも、祖父が始めた昭和10年ころは、畑ばっかりだったらしいです。僕が小学生くらいのころから、まわりにどんどん住宅ができて、結果的に住宅地の中の牧場になっちゃった感じですね。まずは、かわいい牛さんたちに会ってやってください! うちはいらっしゃる方、オールウエルカムですから!
「続けるために縮小」ー都内最後の酪農牧場、3代目牧場主の決断
ファミリー層を中心に人気の、西武池袋線・大泉学園駅。駅前は買い物客で賑わい、少し歩くと閑静な住宅地が広がるこの町に、都区内最後の酪農牧場・小泉牧場がある。練馬区で牧場を営むやりがいと苦労を小泉牧場3代目の小泉勝さんが語った。
牧場を継ぐ気なんて、全然なかった

サイロの向こうには、高層マンションが
――勝さんは子どもの頃から牛が好きで、この道一筋?
いえいえ、僕は虫や動物が苦手な子どもで、牛さんの仕事をする気は全然ありませんでした。手伝いも、イヤイヤ餌やりするくらいで。高校生のときの将来の夢は、ツアーコンダクターか警察官。でも高2のときに親父から「会社員や公務員じゃ、ここの固定資産税は払えないだろうな」って言われて、じゃあ継ぐか、と。安易な考えですよねぇ。それで、八ヶ岳中央農業実践大学校というところへ入って勉強することになったんですけど、正直、しんどかった! 実習メインの学校だったから、とにかく身体がきつくて…。卒業しても、やっていく自信なんてまったくなかったですね。
――それが変わっていったのは?
ヨーロッパでの研修です。1年間、スイスの片田舎で、農業もやってるホストファミリー…ドイツ語ではホストファミリエって言うんですけど…にお世話になって。
――ドイツ語!?
英語もろくにしゃべれないのに(笑)。だから最初は、汗だくになってジェスチャー! 電車に乗るのも隣の人に切符を見せて「ここに行きたい!!」って(笑)。ファミリエのボスは、仕事には厳しかったけど、家に帰るとすごく優しいパパで、彼からたくさんのことを学びました。帰国するときにボスが僕に言ってくれたのは「仕事は、一生かけて自主的に勉強し、努力しなさい。でも、どんなに仕事ができてもそれだけじゃダメ。家族を大切にしなさい」ということ。これは、今でも僕の座右の銘ですね。
――スイスでの研修後は牛に対する気持ちにも変化が?
〝仕事〟という意味では。牛は牛乳を出してくれる存在で、考えていたのは、いかに効率よく牧場を運営するか。赤ちゃん牛を見ても「これで母牛がお乳を出してくれる」みたいな感覚で、かわいいという感情はわいてきませんでした。
――今の小泉さんからは想像もできませんが…。
ですよね! 自分が結婚して子どもが生まれて、やっと気づいたんです。牛さんは飼うものじゃなくて、育てるものだって。そう思ってからは、もう牛さんがかわいくてかわいくて!
――「牛さん」という呼び方に、愛があふれていますよね。
牛さんは、僕の家族であり、仕事仲間であり、良き相棒ですから!

勝さんが牛舎に入ると、牛たちが近づいてくる
牛乳は、命の一滴
――小泉牧場では、小学校の体験学習を受け入れているそうですね。
平成15年から、酪農教育認定ファームとして、小学生が総合学習でやって来るようになりました。最初のうちは依頼があるだけ受け入れていたんですけど、やるからにはひとりひとりにしっかり伝えたい! と、地元の学校に絞って続けて来ました。

赤ちゃん牛と触れ合うことで、お母さんだからお乳が出る、という当たり前のことに改めて気づく
――子どもたちに伝えたいことは?
今の子どもたちは、パックに入ってスーパーに並んでいる牛乳しか知らないじゃないですか。牛舎に入ったら「くさい」って鼻をつまむ子もいる。でも、母牛と仔牛を見せて「赤ちゃんに飲ませるためのお乳を、分けてもらっているんだよ。だから牛乳は命の一滴なんだ」って言うと、子どもたちの顔つきが変わるんですね。
――命の授業…。
いやいや、そんなカッコいいもんじゃないです。僕がしゃべりまくる「3代目の単独ライブ」って言われてます(笑)。全身全霊でシャウトしてますから! 僕はね、子どもたちに「この体験を忘れないで」とは言わないんです。忘れていい。でも、自分たちが大人になって、もしかして親になったとき、ふと思い出してくれたら嬉しいなと。
――現在は、体験学習の受け入れは休止中とのことですが。
もちろんコロナ禍もあるんですが、4年ほど前、仕事中に右膝の靱帯を切っちゃったんです。だましだまし仕事を続けていたら坐骨神経痛が悪化して、ちょうど最初の緊急事態宣言のころに椎間板ヘルニア狭窄症で手術することになってしまったんです。2週間入院して、その後は自宅でリハビリ。復帰するまで半年くらいかかりました。

インタビューに答える時も、勝さんは全身全霊!
――その間、牛さんたちの世話は?
酪農ヘルパーさんの助けを借りました。以前の酪農家は365日休み無しが当たり前だったし、僕も長男が幼稚園にあがるくらいまでは休みを取ったことがなかったんです。でもある時ヘルパーさんを頼んで子どもと遊びに行ったら「パパ、お休みしてくれてありがとう」って言うんですよ。泣いちゃいましたよね。それからは月に数回来てもらうようになっていたので、長期も安心して頼めました。
――そんなに長く仕事をお休みしたのは初めてのこと?
だから、入院中はたくさん本を読んだし、朝はずっとテレビを見てめざましジャンケンとかリモコン片手にやるのが、もう楽しくて(笑)。退院後はNetflixで韓国ドラマ三昧。最初は心配してた妻も、だんだんうんざりしてましたね(笑)。
――そんな中、小泉さんは大きな決断をされたんですよね?
はい。大好きな酪農だけど、続けていくのは難しいんじゃないかと思い始めたんです。
〝練馬の宝〟を守るための決断
――小泉牧場をたたもうと思われた?
そうです。僕はずっと「どうやって牛さんに良いお乳を出してもらうか」しか考えてこなくて、薄々「ここ数年、酪農業界は不景気だぞ」と気づきながらも、目を背けてきたんです。でも、考える時間ができたことで、現実を直視せざるを得なくなった。練馬区で牧場を続けていくことの限界を見ちゃったんです。ちょうど50歳。思い切って別の仕事に就くギリギリの年齢かな、と。
――ご家族はどんな反応でしたか?
高校生の長男と中学生の長女は「仕方がないよね」と。でも次男だけが「やめないでほしい」って言うんですよ。「小泉牧場は〝練馬の宝〟って言われるくらい、みんなに愛されているんだから、やろうよ。やりかたを考えようよ」って。

手前の茶色い牛はブラウンスミス種。甘みのある乳が特徴だという。
――そして考え抜いて決めたやり方が、規模の縮小。
僕が3代目になったとき、牛さんは30頭だったんです。30年かけて56頭まで増やしたんですが、これを25頭にしよう、と。牛舎を減らしてできた土地にアパートと老人ホームを建て、その収入で酪農を続けようと決心しました。名付けて「小泉牧場幸せになろう計画」です!
――現在は、ちょうど工事の真っ最中ですね。
取り壊しが始まった頃から「やめるんですか!?」と尋ねて来る方が大勢いらっしゃるんです。この間は、小学生のときに体験学習で来たという23歳の女の子が足立区から駆けつけてきて「姉から小泉牧場が無くなるって聞いて、居ても立ってもいられず来ちゃいました。やめないでください!!」って。「いや、やめるんじゃないんだよ、続けたいから小さくするんだよ」って説明しながら嬉しくてね。
――次男さんが言った「練馬の宝」は本当ですね。
ホント、ありがたいことです。「小泉牧場幸せになろう計画」が軌道に乗って、コロナ禍も落ち着いたら、また子どもたちに、体験学習という名の単独ライブを聞いてほしいし、できたら小泉牧場ブランドの乳製品も作りたい。やりたいことがたくさんあって、ワクワクドキドキしています。

以前は牛舎があったこの土地が、アパートと老人ホームに生まれ変わる。
小泉牧場
住所:東京都練馬区大泉学園町2-7-16
アクセス:西武池袋線 大泉学園駅北口より徒歩約10分
昭和10年に初代の小泉藤八さんが開業。2代目の興七さん、3代目の勝さんと引き継がれる間に、都区内の牧場は減っていき、平成になるころには23区内最後の牧場となる。現在はホルスタイン24頭、ブラウンスミス1頭を飼育し、1日に500〜550リットルほどを搾乳。東京都酪農業協同組合を通じて製品として出荷されている。酪農教育ファーム認定牧場。
撮影/山口規子 取材・文/工藤菊香