1991年にアメリカで製作された『ワン・カップ・オブ・コーヒー』は、たった3週間だけメジャーリーグでプレーしたことがある中年マイナーリーガーとルーキーの交流を描いた映画だ。
ワン・カップ・オブ・コーヒーとは「コーヒー1杯を飲む間の時間」を指す。その選手はメジャーリーグで戦ったわずかな時間を励みにして過酷なマイナー生活を送っていった。
「豚骨ホームラン」というお笑いコンビで活動していた笠川真一朗にとって、人気バラエティ番組『アメトーーク!』(テレビ朝日系列)に出場したのが、もっとも華やかな時間だった。
司会は雨上がり決死隊の宮迫博之と蛍原徹。ひな壇には、高校野球の熱烈なファンを自認する芸人たちが集められていた。笠川は言う。
「芸人になってたった2カ月で『アメトーーク!』に出た芸人はほかにいないんじゃないでしょうか。あんな人気番組に出たから『おまえ、売れるよ』と言われましたし、そういう目で見られるようになりました。あの番組のおかげでいろいろなオーディションに呼ばれるようになったし」

デビュー直後に『アメトーーク!』出演も…ザキヤマの天才的ボケに「選ばれた人間だけが立てるところなんだ」 笠川真一朗のわずか2年の芸人生活とそれから
光が強ければ強いほど、影は濃くなる。テレビの中で笑いを披露する人気芸人の後ろには、出番を待つ無名の芸人がいる。才能の限界を感じてその世界から去る者も数えきれない。仲間の才能をうらやみ、嫉妬にさいなまれ、人間関係に苦しんだ元芸人――。なぜ彼らはお笑いの世界をあきらめ、別の場所を選んだのか。芸人デビュー後すぐに『アメトーーク!』出演を果たすも2年足らずでそのキャリアを終え、現在はプロバスケットチームで広報の仕事をしている笠川真一朗に迫る。(文中敬称略)
元芸人の“敗者復活戦” #1
『アメトーーク!』出演、「おまえ、売れるよ」

『アメトーーク!』の「高校野球大好き芸人」回に出演した笠川真一朗(左から2番目)
だが、キャリアの乏しい笠川はそこで圧倒的な実力差を感じた。
「あの現場がどれほど過酷なものだったか、あそこで戦っている人がどれだけすごい人たちかということを思い知らされました。一流芸人による丁々発止のやりとり、即興で言葉の応酬をする現場にポンと放り込まれ……選ばれた人間だけが立てるところなんだと実感しました。会話のテンポやスピード感もすごかった。
速射砲のようにボケる(アンタッチャブルの)山崎弘也さん、ひと言で空気を変える宮迫さん、トークの流れと関係なく奇跡的な笑いを取る狩野英孝さん……みなさん、本当にすごすぎました」
笠川がお笑いの道を目指したのは遅かった。
「『M-1』を見たらなぜか涙が出てきて…」
高校(龍谷大平安高)、大学(立正大)時代はともに野球部のマネージャーとしてチームを支え、その後、百貨店の松屋銀座に勤めた。
「会社員として充実した生活を送っていました。こうやって仕事を覚えて、段階を踏んでいけば成長していけるんだなという手応えみたいなものを感じる毎日でした。
もともと僕が所属していた野球部には100人近くの部員がいて、僕は『面白いことやれや!』と言われて前に出て爆笑を取ることが多かったんです。その延長戦で『やれるんじゃないか』と思っていました」

龍谷大平安高野球部時代の笠川
会社員として歩み始めた笠川の進路を変えたのは、ひとつのテレビ番組だった。
「自宅でひとりお酒を飲みながら『M-1グランプリ』を見ていました。その年(2016年)は銀シャリというコンビがチャンピオンになったんですが、銀シャリさんの優勝が決まった瞬間になぜだか涙が出てきて……お笑いをやってみたい――。自分の中に眠っていた気持ちに気づいた瞬間でした」
野球部の中で人気者であっても、そのままプロになれるほど甘い世界ではないことは、奈良で生まれ、京都で高校時代を過ごした笠川にはよくわかっていた。翌日から、お笑い養成所の情報を集め、地道な一歩を踏み出した。
「野球部の中だとみんな仲間なのでちょっとしたことでウケますが、自分の知らない人の前で自分の脳みそで考えたことでみんなを笑わせるというのは、ものすごくカッコいい仕事だなと思えました」
職場の上司の理解を得て、笠川は百貨店で勤めながら養成所に通い、プロの芸人を目指した。だが、安定した会社員としての生活を捨てるにはリスクがあまりにも大きい。
「お笑い芸人になりたいと言ったとき、多くの人に『やめたほうがいいよ』と言われました。僕も、この世界で成功するのは簡単じゃないと思っていました。
養成所にはいろいろな人がいました。大学のお笑いサークルや落語研究会出身の人も、僕と同じサラリーマンも、議員の息子も、人前で話すことが苦手でそれを克服するために来ていた人もいました。
本気で芸人になりたい人も暇つぶしみたいな人も。年齢も経歴も目的もバラバラでしたね。もちろん、芸人になって売れたいという人が多かったですけど」
もちろん、60万円ほどの授業料は自分で払った。
「分割にしてもらいましたけど(笑)。お金を払ったから、真剣に通いました。発声練習やダンスのレッスン、台本を渡されて芝居をしたりしていました。自分たちで3分くらいの漫才やコントをつくって、作家さんに見せてアドバイスをもらう。ボロボロにダメ出しされることもありましたね。
野球部時代に考えるよりも行動することに慣れていたので、ダンスレッスンで恥ずかしいと思うこともなかったし、ダメ出しされてもへこむことはありませんでした。野球部での経験が生きたと思います」
相方との関係は「ガタガタに」
漫才、コント、ピン芸の賞レースが数多く開催されるようになった今、売れるための方程式は確立されたように見える。しかし、頂点にたどりつける確率は限りなく低い。
「僕は、本当に好きなことをやりたかったし、一度くらい、道を踏み外してもいいんじゃないかという思いもありました。自分の名前がドーンと出る大きいテレビ番組をやりたいし、M-1にも出たいし、有名になりたい。あとは、面白くなりたいと思っていました。
どこへ行っても、誰と会っても、目の前の人を笑わせる人間になりたい。そうなれば勝手に売れるんだろうと思っていました」
養成所でその実力を認められた笠川は、豚骨ホームランというコンビで、ワタナベエンターテイメント所属のプロ芸人となった。先輩にはネプチューン、アンガールズなどたくさんの売れっ子がいる。
「僕は野球部時代から『負けたくない』『一番になりたい』という思いが強かったですね」

野球部での経験が人生の糧になっている
その一方で、ずるずると芸人生活を続けるつもりはなかった。
「もし3年たってもテレビに出られなかったら、芸人をやめようと決めていました」
会社員として退路を断った笠川の生活は決して楽ではなかった。しかし、ここで野球部時代の人脈が生きた。
「野球部の先輩がやってる飲食店で働かせてもらいました。ものすごくかわいがってくれて、『好きなだけご飯を食べろ』『シフトも融通を利かせてあげるから』と言ってもらいました」
デビューしてすぐに『アメトーーク!』出演というチャンスをつかんだものの、コンビとして飛躍することはできなかった。
「あの番組に出たことで、野球ものならやれるという評価をされたと思います。野球の原稿を書いてほしいという依頼が来るし、存在も知ってもらえるようになりました。ただ、僕の名前が先に出たことに対して相方には思うことがあったんでしょうね、こちらにも変な気遣いがあったかもしれない。
少しずつ関係が微妙になっていって……最後にはガタガタに崩れてしまいました。相方から『解散したい』と言われたとき、僕はピン芸人になるつもりはなかったし、ほかの誰かと組んで漫才をやることは考えられなかった」
こうして『豚骨ホームラン』も笠川も芸能活動をやめた。実働はわずか2年に満たなかった。
「僕なんか、たいした実績もないし、誰も興味がないやろうと思っていたので、ツイッターで『ワタナベエンターテインメントをやめました』と書いたくらいですね。スパッとやめることができたのは、自分のキャリアがみなさんに認められるものだったからだと思います。
高校、大学で野球部のマネージャーをやって、百貨店でも働いた。芸人として一瞬でも『アメトーーク!』に出られたから、未練はほぼありませんでした。早めに気持ちを切り替えていくべきやなと思いました」
「今はバスケットにハマっています」
芸能界引退後、笠川はライターになり、大学野球などのスポーツ記事を書いた。
「高校、大学時代にマネージャーとしてリアルに頑張っている人たちを見てきて、そういう姿を世の中の人たちに知ってもらいたいという気持ちがありました。ずっと自分が携わってきた野球に関する記事を書くことに責任を感じていましたし、自分が実際に見て感じたことを正しく書けたと思います」

ライターとして取材をする笠川
その後、新型コロナウイルス感染拡大の影響もあって住まいを東京から奈良に移し、恩師の原田英彦監督に請われて母校の龍谷大平安野球部の練習もサポートした。
「高校時代の3年間をひと言で言うと? とにかくつらかった……僕がチームの中で一番怒られたと思います。原田監督はもう60歳を超えられていますけど、そういう年齢になっても他人の子どもに対して本気で向き合っている。これってすごいことやと思うんですよ。厳しく接してもらい、監督から学んだことがたくさんあります。人生の誇りです」
後輩の指導のサポートをしているとき、友人に誘われてプロバスケットボールの試合観戦に行った。
「『Bリーグが面白いよ』と聞き、バスケットボール会場に足を運ぶようになりました。野球場と比べれば狭い空間ですけど、ビジョンが設置されて、音楽がガンガン流れる中で試合が行われていました。
ボールはずっと動いているし、選手同士が激しくぶつかるコンタクトスポーツでもあります。純粋に面白かったし、圧倒されましたね」
その感動をツイッターで書いたことで、笠川の人生が変わっていく。
「京都ハンナリーズの成績はよくなかったんですけど、勝利の瞬間を見届けようと思って追いかけるようになりました。当時の社長に『もっとチームのことを発信してよ』と言われて、取材させてもらうようになりました」
2022年5月、笠川はハンナリーズの一員になった。現在は、マーケティング部広報・興行(運営/演出)担当マネージャーとしてチームの魅力を伝えている。
「もともと野球部のマネージャーをしているときに、いずれはそういう仕事をするんやろうなと自然に思っていました。やっとチャンスが来ましたね。強いチームではありませんし、資本的にも恵まれているわけでもないけど、だからこそやりがいがある」
笠川が所属していた龍谷大平安高、立正大学からプロ野球に進んだ選手がたくさんいる。12球団で2000万人以上の観客を集めるNPB(日本野球機構)とBリーグでは人気面も注目度も違う。
「野球やサッカーと比べれば、プロバスケットボールはまだメジャーとは言えませんが、その分、選手たちはファンサービスに熱心に取り組んでくれています。
僕はバスケットボールの魅力をものすごく感じていますし、可能性を感じています。もっと人気が出ないとおかしいと思っているので、そのために働くつもりです。おかげさまで、少しずつメディアで取り上げられる機会も増えています」

現在は京都ハンナリーズの広報としてチームを発信している
1994年3月生まれの笠川はまだ29歳。自分だからこそやれることがあると思っている。
「マネージャーとしてチームを支えることも、百貨店で働いたことも、芸人として前に出ることも経験した自分のよさをどんどん出していきたいですね。芸人時代も楽しかったですけど、今はバスケットにハマっています」
取材・文/元永知宏
写真提供/笠川真一朗
編集/一ノ瀬 伸
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