
失恋をきっかけに登山に開眼!? 異色の登山家・栗城史多氏が「単独無酸素」にこだわった理由
「夢の共有」というキャッチコピーを掲げて登山の様子を動画配信するなど、従来の登山家のイメージには収まらない型破りな活動を続け、話題を呼んだ栗城史多氏。2018年に亡くなった彼の活動には、一方で激しい毀誉褒貶もついて回った。そんな彼の素顔を描き、このたび文庫版が発売された『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』から一部を抜粋、再編集して紹介する。
マグロになりたい登山家?
2018年5月21日、栗城史多さんがエベレストで滑落死した。35歳という若さだった。
かつて私は、北海道放送のディレクターとして栗城さんを約2年にわたって取材した。2008年から2009年にかけてである。
彼を取材しようと思ったきっかけは、2008年5月初旬、出張帰りの列車の中で目に留めたカタログ誌だった。座席前のポケットにJR北海道の車内誌と一緒に収まっていた。『単独無酸素で七大陸最高峰を目指す!』と、栗城さんを紹介した記事が載っていた。
栗城さんはこの5カ月ほど前の2007年暮れ、南極大陸の最高峰、ビンソンマシフ(標高4892メートル)に「二度目の挑戦で登頂を果たした」とあった。
これまで登った山と合わせて、栗城さんは6つの大陸の最高峰に立ち、残すはアジア大陸最高峰にして世界の頂であるエベレストのみ。そのエベレストには今年(2008年)の秋に挑戦する――と書かれてあった。
単独無酸素? 七大陸最高峰?
登山の知識がなかった私にはどうもピンと来なかった。だが唯一、強烈に引きつけられる記述があった。
「ボクの理想はマグロです。少しの酸素でいつまでも泳いでいられるマグロのような体を作りたいんです」
すごいことを言う人だな、と驚嘆した。山に登る登山家が海の魚を「理想」と語るのだ。
「独学ですが」と前置きして、彼流の栄養学も語られていた。
「重たい筋肉は登山家にとって妨げにしかならないので、肉は一切口にしません。野菜と大豆が中心で、あとは魚。中でもマグロは食材としても理想です。ただ、高価なのであまり口にはできませんけど(笑)」
栗城流栄養学について、のちに医師と栄養士に聞いてみると「肉(特に豚肉)は疲労回復に効果的なビタミンB1を豊富に含むので、むしろ登山家に最適の食材では?」と否定的な見解だった。しかし、目標を達成するために食生活にも気を配る栗城さんを、私は芯のある人だと感心した(2012年ごろから肉も食べるようになったそうだ)。
カタログ誌には講演の依頼や登山費用のカンパの窓口として、栗城さん自身のホームページのアドレスが載っていた。私はそこにメールを送った。その日のうちに事務局の男性、児玉佐文さんから返信があり、その1時間後には『山に登る栗城と言います。ご連絡ありがとうございます』と本人からもメールが届いた。
何日か経って、栗城さんが私の勤める放送局まで足を運んでくれた。このとき、25歳。私の中での登山家や冒険家の像というと、映画にも描かれた植村直己氏(1941~1984年)の印象が強いからか、「ドッシリ」「ずんぐり」そして「寡黙」というものだった。高倉健さんを倍に太らせ、「自分、不器用ですから」と伏し目がちに呟いているイメージだ。
しかし目の前の栗城さんは、小柄で童顔。クリクリした目と人懐っこい笑顔は小動物を思わせた。少し鼻に抜ける高い声で話す。普通に話していても、笑っているように聞こえた。
街中でもリュックを背負っていた。いつもそうだと言う。
「『重いものでも入っているんですか?』ってよく聞かれるんですけど、パソコンぐらいです。三浦雄一郎さんみたいに鍛えているわけではないので」と微笑んだ。局のそばにあるホテルのラウンジで、パフェを食べた。
「スイーツ好きなんですよ。あとコーラも」
その流れで「お酒は?」と聞くと、
「七大陸最高峰に登頂するまではと、2年前に絶ちました」
失恋がきっかけで登山の道に
栗城さんは2009年ごろまで、ホームページなどで「小さな登山家」と自称していた。身長は162センチで、体重は60キロ前後。聞けば中学時代は野球部に所属したが3年間ずっと補欠。高校では空手部に入ったが、体が硬く基本の股割り(股関節を広げる動き)さえ満足にできなかったという。体は小さく、運動能力が高いわけでもないらしい。
6つの大陸の最高峰に登頂した力の源はどこにあるのか?
「うーん、自分でもわからないんですけど、強いて言えば精神力ですかねえ」
「根性で登ると?」
「根性とは少し意味が違うんですけど。ボクは登っているときいつも、ありがとう、ありがとう、って感謝しながら、時には口にしながら登っています。マイナスなことは一切考えないんですよ。ボクが考えなくても、登れるかどうかは山が決めてくれますから」
「登山は、心の持ちよう、ってことですか?」
「心と体はつながっているので、ボクはヨガの腹式呼吸を時々交えながら登っています。3秒吸って、2秒止めて、15秒かけて吐く。ありがとう、苦しみをありがとう、この先には喜びが待っている、ありがとう、って。まあ、一種の自己暗示ですけど」
400戦無敗の柔術家ヒクソン・グレイシー氏の顔が浮かんだ。ヒクソン氏もヨガを実践し、どんな難敵を前にしても冷静だった。
「そもそも、登山を始めたきっかけは何ですか?」
「高校生のときにつきあっていた彼女が山に登る人だったんです。でも、フラれちゃって」
彼はそこで言葉を区切ると、ニッコリして私の反応を待った。
「もしかして、その彼女を見返してやろうと?」
栗城さんは「はい」と大きく頷いた。
「それともう一つ、なぜ山になんか登っていたんだろう? って彼女の気持ちを知りたくなったんです」
「ひきずるタイプなんですね?」
「女々しいんです、ボク」
ハハハハ、と2人同時に笑った。この失恋話は彼が講演で必ず披露するエピソードだ。
きっかけは彼女だったとしても、一過性で終わらず山にのめり込んだのには、それなりの理由があったはずだ。他にもスポーツはある。登山のどんなところが魅力だったのか?
「そうですねえ。大学の先輩が真夏でも冬山用の服を着ている変な人だったんですよ。そのくせ足元は便所サンダル履いてたりして。無口で、哲学の本とか読んでる人で、最初は、気持ち悪いなこの人、って思ってたんですけど、だんだんかっこよく見えてきちゃって」
「元カノよりも先輩が好きになっちゃったんですね?」
私の冗談に、栗城さんは幼子のようにあどけない顔で笑った。
「決定的だったのは、1年生のときに2人で行った年越しの冬山ですね」
栗城さんが自らの著書の中でも触れ、講演でもたびたび話す登山体験である。
「単独無酸素」にこだわる理由
2002年の暮れから2003年の正月にかけての1週間、栗城さんはそのG先輩と一緒に、札幌市南区と喜茂別町の境にある中山峠から、小樽の銭函までの60キロを縦走した。『初めての命がけの登山』と栗城さんは書いている。
『縦走五日目。今回の縦走ルートの一番の難所、余市岳の壁を登っていく。風は今までで一番強い。(中略)「もうダメです」と口にしても主将は僕を振り向くことなく、励ましの言葉もかけてくれない。主将はアドレナリンが出てきたのか、奇声を発し、登っていく。もう人間じゃない』(『一歩を越える勇気』2009年・サンマーク出版)
「二度とやるものか」と縦走中は参加したことを後悔したが、ゴールである銭函の海を目にしたとたん、何とも言えぬ達成感と充実感で胸が満たされたという。
栗城さんは以後、G先輩を師と仰ぎ、登山の経験を積んでいく。
私は、彼が掲げる『単独無酸素での七大陸最高峰登頂』に質問を移した。
「成功したら、日本人初なんですね?」
「はい。世界でも(ラインホルト・)メスナーさんというイタリアの人が達成しただけです」
「じゃあ、史上2人目ですか?」
栗城さんがパフェのアイスクリームを口の中で溶かしながら、照れたように頷く。その仕草が何ともかわいらしくて、今も鮮明に覚えている。
「単独無酸素、ということですが、まず、なぜ単独なんです?」
「山と一対一で向き合いたいんですよね。全身全霊で山を感じたいっていうか。山って、登れば登るほどその大きさを教えてくれるんですよ。同時に人間の小ささもわかってきて。ボクは山に登るたびに自分自身が謙虚になっていく実感があります」
目の前に山があるかのような厳かな話しぶりに、私は感じ入った。
「では、酸素ボンベを使わない理由は?」
途端に、栗城さんの声が裏返った。
「いやあ、酸素ボンベって一人で持って上がるには重いでしょう? 単独だとかえってキツイし。何より1本2万円近くするんですよ。買えないな、と最初から諦めて、これまで我慢してボンベなしで登ってきました。ドM(マゾヒスト)なのかもしれません。フフフ」
柔術家の気高さを漂わせたかと思えば、一転、自虐ネタを投げてくる。話していて飽きることがなかった。
山を舞台にしたエンターテインメント
その数日後、段ボール1箱分のビデオテープとDVDが届いた。初めての海外登山だった2004年の北米大陸最高峰マッキンリー(現称=デナリ・6190メートル)から始まる、栗城さんのすべての登山の映像素材だった。
それは、かつて目にしたことのない世界だった。
栗城さんは山に登る自分の姿を、自ら撮影していた。山頂まで映した広いフレームの中に、リュックを背負った栗城さんの後ろ姿が入ってくる。ほどよきところで立ち止まった彼は、引き返してカメラと三脚を回収する。
クレバス(氷河の割れ目)に架かったハシゴを渡るときは、カメラをダウンの中に包み込んでレンズを下に向けている。ハシゴの下は深さ数十メートルの雪の谷。そこに「怖ええ!」と叫ぶ栗城さんの声が被さっていく。
栗城さんは自分の泣き顔まで撮っていた。南極大陸最高峰のビンソンマシフには2回挑戦しているが、2回とも泣いている。
1回目、2006年の挑戦で流したのは、悔し涙だ。定められている滞在期間が切れてしまい、係員に撤退するよう求められた。
「ボクは登りたいんですけど……係の人が下りろって……」
下山しながら、ケンカで負けた子どものように泣きじゃくっていた。
2007年暮れ、今度は歓喜の涙を流した。南極では単独登山が認められていない。このときは撮影スタッフ2人とベースキャンプ(BC)に入って隊の体裁を作った。そこから一人で登ったが、見咎められることはなかった。
登山は順調に進み、栗城さんのカメラが前方に近づいてくる山頂のサインをとらえた。
「あれだよお!」
震えた声が被さると同時にカメラがパンして、泣きながら登る彼の顔にしっかりと向けられた。それは一言で言えば「栗城劇場」。山を舞台にしたエンターテインメントだった。
栗城さんがパフェを食べながら言った言葉が、私の脳裏に蘇った。
「ボクにとって、カメラは登山用具の一つですから」
(注)その後、筆者は取材を通して、栗城氏が掲げていた「単独無酸素」という看板がひどく誤解を生む表現であり、虚偽表示や誇大広告に近いものであることを知る。詳細は『デス・ゾーン』に記している。
文/河野啓
同書と「冒険」をテーマにした過去の受賞作2作を合わせた形で、丸善ジュンク堂書店の複数店舗で「開高健ノンフィクション賞20周年記念ブックフェア」が開催中。

デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場
河野 啓

2023年1月20日発売
825円(税込)
文庫判/384ページ
978-4-08-744479-7
第18回開高健ノンフィクション賞の受賞作『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』(集英社)の文庫版が1月20日に発売された。2018年に亡くなった「異色の登山家」とも称される栗(くり)城(き)史(のぶ)多(かず)氏を描き、注目を集めた一冊だ。
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