前年初登場したジェニファー・コネリーが、1986年のロードショーにおいて最多4回も表紙を飾っている。ファンタジー大作『ラビリンス 魔王の迷宮』(1986)で堂々とヒロインを演じているほか、青春映画『ジェニファーの恋愛同盟』(1986)も公開。初来日を果たしたこともあって、特集記事も充実。スイカを囓った9月号表紙の特写がなんとも初々しい。ジェニファー・コネリーはこの年のシネマ大賞女優賞も受賞している。

表紙の新女王はジェニファー・コネリーに! 見えてきた、ハリウッド80年代女優の人気の仕掛け人たち
ジェニファー・コネリー人気が炸裂し、表紙はフィービー・ケイツと二分。そこに滑り込んだリー・トンプソン(『バック・トゥ・ザ・フューチャー』)含め、この時代に人気のハリウッド・アクトレスにはある共通点が!
ロードショー COVER TALK #1986
新女王ジェニファー・コネリー!

この頃のメイクのトレンドは太い眉。ジェニファー・コネリーの眉は女子の憧れだった。 1月号/フィービー・ケイツ 2月号/ターニー・ウェルチ※初登場 3月号/ジェニファー・コネリー 4月号/ダイアン・レイン 5月号/フィービー・ケイツ 6月号/ジェニファー・コネリー
©ロードショー1986年/集英社
一方、絶対王者フィービー・ケイツの表紙は3回。『グレムリン』(1984)以降、出演作がないにも関わらず人気を維持している。一方で、ライバルのダイアン・レイン、ソフィー・マルソーの表紙はそれぞれ1回のみだ。
「ロードショー」の表紙に初登場を果たしたのは3人。まずは、『コクーン』(1985)で映画デビューを飾ったターニー・ウェルチ(2月号)。この時期の「ロードショー」は『コクーン』推しだった。編集部は『E.T.』(1982)に匹敵するヒットを期待していたようだ。
リー・トンプソンは7月号に初登場。彼女が出演する『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)は、1986年の配給収入ランキングで『子猫物語』(1986)につぐ第2位の大ヒットとなった。
新人のなかで最注目は10月号表紙のシンシア・ギブだ。TVドラマ『フェーム 青春の旅立ち』(1983~1987)を経て、青春スポーツ映画『栄光のエンブレム』(1986)と、オリバー・ストーン監督の社会派映画『サルバドル 遙かなる日々』(1986)が立て続けに公開されている。
ちなみに、ジェニファー・コネリー、フィービー・ケイツ、リー・トンプソンにはある共通点があるのだが、分かるだろうか? その答えは次のページで。
ハリウッドのヒットメーカーたち
ジェニファー・コネリーの『ラビリンス 魔王の迷宮』、フィービー・ケイツの『グレムリン』、リー・トンプソンの『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と『ハワード・ザ・ダック』(1986)。これらの製作総指揮に注目すると、彼女たちの人気の秘密が分かる。
『ラビリンス 魔王の迷宮』と『ハワード・ザ・ダック』の製作総指揮はジョージ・ルーカス、『グレムリン』と『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の製作総指揮はスティーヴン・スピルバーグ。つまり、彼女たちは80年代の2大ヒットメーカーが手がける映画のヒロインに起用されているのだ。

7月号/リー・トンプソン※初登場 8月号/ソフィー・マルソー 9月号/ジェニファー・コネリー 10月号/シンシア・ギブ※初登場 11月号/ジェニファー・コネリー 12月号/フィービー・ケイツ
©ロードショー1986年/集英社
ルーカスフィルムとは、『スター・ウォーズ』を手がけるためにジョージ・ルーカスが立ちあげた製作会社だ。『スター・ウォーズ』と『インディ・ジョーンズ』という2つの看板シリーズに加えて、『ラビリンス 魔王の迷宮』や『ハワード・ザ・ダック』『タッカー』(1988)『ウィロー』(1988)といった作品に挑戦している。
盟友スピルバーグ監督も1981年に自身の製作会社アンブリンを、フランク・マーシャル、キャスリーン・ケネディというふたりのプロデューサーと共同で立ちあげた。『E.T.』などの自身の監督作に加えて、『Oh!ベルーシ絶対絶命』(1981)『ポルターガイスト』(1982)『トワイライト・ゾーン 超次元の体験』(1983)『グレムリン』『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『グーニーズ』(1985)『ヤング・シャーロック ピラミッドの謎』(1985)といったエンタメ映画を量産。映画界の仲間や若手に率先的にチャンスを与えていった。
一番弟子といえば、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』をきっかけに、その後、『フォレスト・ガンプ 一期一会』(1994)や『キャスト・アウェイ』(2000)などのヒット作を手がけるロバート・ゼメキス監督だが、クリス・コロンバス監督の存在も忘れてはいけない。彼は、脚本家として『グレムリン』『グーニーズ』『ヤング・シャーロック ピラミッドの謎』といったアンブリン作品を執筆。その後、映画監督デビューを果たし、『ホーム・アローン』(1990)や『ハリー・ポッターと賢者の石』(2001)などのヒット映画を手がけている。
ちなみに、この時期のスピルバーグ監督はアンブリンのエンタメ作品を製作総指揮として支えつつ、自身は『カラーパープル』(1985)『太陽の帝国』(1987)といったシリアスな映画に挑戦していた。ヒットメーカーが自在に作品を放ち続ける、80~90年代のハリウッド黄金期が到来したのだ。
ロードショー COVER TALK

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