──NHK・BSプレミアムで「中森明菜スペシャルライブ~2009 ・横浜」が放送されると、この番組を見たフリーアナウンサーの徳光和夫が「40周年を機に復帰の待望論が巷では再燃しているんですけど、私も一ファンとしてあの才能が眠り続けているのはもったいないなと思えてなりません」とラジオで熱く語っていました。活動休止状態ながら今なお、中森明菜の復帰を願うファンの声が後を絶たないのはなぜでしょうか?

評価しつくせない才能をもった人ですから、復帰を願わないファンはいないと思います。あの歌声をまた聞きたいと熱望するのは当然です。

──スージーさんは中森明菜と同年代ですが、デビュー当時はどんな印象を持っていました?

当時は松田聖子を代表する明るくて可愛いアイドル全盛の時期だったんですが、中森明菜は、その対抗軸と言いますか。ちょっと影のある女の子が出てきたっていうのが、まぁ衝撃的でした。しかも、デビューしたのはいわゆる「花の82年組」と呼ばれる女性アイドル大豊作の年で、その中でもズバ抜けて歌がうまかった。

あといろんな本でも書かれていますけど、彼女がまだ10代の頃に出した「北ウイング」って曲なんかは作詞作曲のメンバーを自分で指名し、タイトルも本人が決めました。

──その頃からすでに制作に関わっていた?

そう。初期は来生たかおや玉置浩二に曲を書いてもらっていましたけど、後半はセルフプロデュースをして自分の世界観を具現化するために若手の作家を抜擢するパターンが多かった。そういう意味では作られたアイドルではなく、自力でブレイクした人。

「サザン・ウィンド」から「TATTOO」まで15曲連続チャート1位で、次の「I MISSED“THE SHOCK”」だけ3位でしたけど、そのあとも1位が続いて売り上げはすごかったです。

芸名も最初は「森アスナ」って名前を当て込まれたけど、本人が本名の「中森明菜」でいくって譲らなかったらしいですからね。常に自分の感覚を信じ、周りの大人も最終的にそこを認めていました。

10代から傑出した自己プロデュース力を発揮

松田聖子が長嶋茂雄なら、中森明菜は落合博満。デビュー40周年の年に復帰を望む_1
中森明菜と同年代のスージー鈴木さん