モニター越しにも、そのピンクのパンツは目に眩しかった。グレーのジャケットとコーディネートされたそのファッションに、どうしても目が行く。普通、藤井の対局では、何を差し置いてもまず藤井の動向が注視されるが、この日は違っていた。対戦相手の大橋の装いは、地味になりがちな将棋の対局風景の中で異彩を放っていた。
朝の主役は「ピンクのパンツ」だったが、時間が深まるにつれて華麗に躍動する大橋の駒たちに目を奪われた。AIの評価値は形勢互角を表している。最強棋士である藤井を相手に、大橋は奮闘していた。
そして突然、藤井の評価値が急落した。間違えたのだ。大橋は慎重に駒を進める。優勢になったとはいえ、終盤での一手のミスは即、逆転につながる。しかし、大橋は強かった。藤井以上に質の高いパフォーマンスを見せ、最年少記録を更新し続ける19歳の五冠王を倒したのだ。

藤井聡太キラー・大橋貴洸。強さの秘訣は「戦略眼」と「スーツ」にあり
圧倒的な強さを誇り、将棋界のトップ棋士となった藤井聡太竜王。しかし、無敵に見える藤井にも、強力なライバルがいる。それが大橋貴洸六段だ。先月の王座戦本戦トーナメントでも藤井を撃破。今、最も勢いがある棋士とも言える大橋の実像を将棋ライター・大川慎太郎氏がお伝えする。
興奮冷めやらぬまま、この日の出来事を反芻する。朝の鮮やかなピンク色の残像と、藤井を破った夜の光景が交互に浮かんでは消えていく。なんとも幻想的な1日は、紛れもなく「大橋の日」だった。
藤井聡太に4連勝中
ゴールデンウィークに挟まれた平日の5月6日。関西将棋会館で王座戦挑戦者決定トーナメント1回戦が行われ、大橋貴洸六段が藤井聡太竜王を破った。
前回の記事で記したように、将棋界で8つあるタイトルのうち、藤井は5つを保持している。すべてのタイトルを制覇するには、トーナメント戦の王座戦と棋王戦がキモになる。リーグ戦と違って1敗したら終わりだからだ(棋王戦はベスト4以降、敗者復活戦がある)。そして王座戦の初戦の相手は藤井が珍しく負け越している大橋で、危惧していた不安要素がいきなり現実のものになってしまった。
藤井から見て2勝3敗だった大橋との対戦成績は2勝4敗となった。しかも直近は大橋が4連勝中である。なぜ大橋は藤井に勝てるのか、そもそも大橋はどんな棋士なのだろうか。
大橋は2016年10月に24歳でプロ入り(四段への昇段)を果たした。四段への道を争う三段リーグでは基本的に上位2名が昇段をするが、大橋と同時に四段になったのが、あの藤井聡太である。
大橋の師匠は、関東の名伯楽として知られる所司和晴七段だ。大橋は関東奨励会に在籍していたが、高校を卒業すると自ら関西奨励会に移った。家庭の事情などはあっても、自分の意志での移籍はかなりのレアケースだ。
「三段リーグに上がったばかりの頃は全然勝てなくて、とにかく棋力を上げなければいけないと思いました。東京で続けていく道もあったでしょうけど、思い切って関西に移籍して、まっさらな環境で将棋だけの生活を送ってみようと思ったんです」と大橋は振り返る。そしてこの時期、大橋は三段リーグにはグリーンのスーツで現れるようになる。
「高校を卒業してちょうど制服を着なくなった時期でした。『勝負服』という意味合いでスーツを着用しようと思ったんです」

環境を変えたこと、そして勝負服の効果もあったのだろうか。徐々に勝ち越しが増え、上位争いをするようになる。時間はかかったが、見事にプロ入りを果たした。
魅せて結果を出すプロ棋士に
プロは見られてナンボの世界である。ファッション以外でも大橋は自己表現を始めた。2020年4月に出版した将棋定跡書のタイトルがふるっていた。
『耀龍四間飛車(ようりゅうしけんびしゃ) 美濃囲いから王様を一路ずらしてみたらビックリするほど勝てる陣形ができた』
タイトルはもちろん大橋の提案である。これほど攻めたネーミングの将棋本がかつてあっただろうか。そして21年末には、「TAKAHIRO OHASHI CHOCOLATE」というオリジナルのチョコレートを期間限定で発売。将棋棋士の枠を超えた活躍だ。
いくら世間の注目を集めようと、本業の成績が芳しくなければ評価されない。棋士人生をそれなりに送って先が見えてくれば関係ないが、最も将棋に集中できる若手の間は公式戦で結果を出さなければいけない。
大橋は、白星を量産してきた。2018年にはYAMADAチャレンジ杯と加古川青流戦という若手棋戦で優勝した。今年に入ってから活躍はさらに加速する。順位戦B級2組に昇級し、竜王ランキング戦4組でも優勝して、決勝トーナメント進出を決めた。
ちなみに、公式戦を250局以上指した棋士で最高の勝率を誇るのは藤井(270勝54敗、勝率8割3分3厘)。2位は大橋である(180勝71敗、勝率7割1分7厘。成績はいずれも6月26日現在)。
藤井の牙城を崩せない実力者はたくさんいる。その中で、大橋の以前の3勝は、後手番で「横歩取り」という自分が得意かつ比較的、藤井の経験が浅いと思われる形にうまく持ち込んだことが大きかったのではないか。
そして冒頭で記した4勝目の要因だが、まず大橋の状態がよいことにある。今年に入ってからの成績は驚異の17勝2敗だ。一方の藤井は状態がいまひとつのように見える。今春の叡王戦五番勝負ではストレート防衛を果たしたが、内容的には盤石とは言い難かった。
そして王座戦の持ち時間が「チェスクロック式」だったことも関係しているかもしれない。最近の公式戦で用いられ始めたこの方式は時間を使っただけ引かれるが、以前から用いられている「ストップウォッチ式」は、1手を1分未満で指せば時間は減らない。藤井は「ストップウオッチ式」を採用する多くのタイトル戦で残り数分になってから1分未満で指し手を続け、持ち時間をキープする戦い方を得意にしている。
不世出の天才棋士といえども、1手を1分未満で指さなくてはいけない「一分将棋」になると追い込まれてミスが出やすくなる。冒頭で記した形勢逆転のミスが出たのは、一分将棋になってからだった。意外な手を指されても「さらに1分ある」という事実は、大きな安心感につながるのだ。
「不言実行」の棋士がタイトル挑戦を目指す
2年前、大橋に「なぜ藤井に勝てるのか?」という問いをぶつけたことがある。藤井から3勝目を挙げた後のことだ。
すると大橋は「うーん……」と唸って、明言しなかった。ほかに未来の目標についても尋ねたが、「ゆくゆくはタイトル獲得を目指しているけど、その棋力に到達するかどうか……」などと曖昧な話し方に終始していたのを思い出す。強烈な自己主張と、控えめな言動のギャップに驚かされたが、面白くも感じた。大橋は「不言実行」タイプなのだ。これからも言葉よりも行動で我々を楽しませ、驚かせてくれるだろう。
藤井に勝った王座戦で、大橋はベスト4に進出している。あと2勝で初のタイトル戦だ。準決勝は6月29日、相手は兄弟子の石井健太郎六段。30歳の石井もタイトル戦の経験はない。大橋同様、石井もこの勝負に賭けている。
兄弟子と弟弟子が挑戦者決定戦を目指して、血で血を洗う激闘を繰り広げる。生放送は予定されておらず、大橋のスーツ姿を多くの人に見てもらえないのは残念だが、日本将棋連盟のモバイル中継で棋譜は生中継される。
まずは盤上を注視しよう。棋力などは関係なく、自分の好きなように見ればいいのだ。駒の動きと観客の視線の交錯によってはじめて、プロの将棋の本質は浮かび上がるのだから。
画像/共同通信
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