撮影所に出入りするという優越感

実は、というかすでにあちこちでカミングアウトはしているんだけども、1982年の段階で私はすでにただの映画ファンではありませんでした。遡ること2年前、中学3年のときにひょんなことから東宝スタジオに出入りするチャンスを手に入れ、それからというもの、暇さえあれば小田急線で成城学園前に行き、映画が生まれる場の空気に触れて悦に入っていました。

別に仕事をしていたわけではありません。ただの見学者です。だけど、それでも一観客を超えて最新の映画でなにが作られているのかを誰よりも先にキャッチしていたわけですよ、中学生の分際で。 

太平洋戦争の苦しみをさまざまな視点から描き抜く。『二百三高知に』続き樋口真嗣を圧倒するこの戦争大作を世に送った舛田利雄監督は、ほぼ同時にアハハンなヒット作も撮っていた!【『大日本帝国』】_1
現在の東宝スタジオ。壁面にはスタイリッシュなゴジラが
写真:アフロ
すべての画像を見る

だが残念ながら、そのことを自慢する相手がひとりもいなかったのです。クラスのみんなはといえば、映画に興味があって習慣のように映画を見るのは一握りで、しかもその一握りの全員が洋画しか観ていないではありませんか。 だから私がキャッチした東宝スタジオの最新情報なんて、誰も見向きもしなかったのです。

今からは考えられないほどに、日本映画を取り巻く状況は冷え切っていました。 と言いながらも改めてその頃作られた映画を見ると、今では絶対できないようなことばかりやっていて愕然とします。

アメリカからは莫大な予算とアイデアが投下されたエンタテインメント大作が、香港からは命懸けのスタント、アクションが。そしてヨーロッパからは芸術的センスの高い珠玉の名画が押し寄せていたし、それまでの単なるテレビシリーズを映画監督がまるで名義貸しのように劇場版としてまとめ上げただけの劇場アニメから、純粋なアニメーション演出を手掛けてきた世代による鋭利な演出によって、オリジナルアニメーション映画が輝き始めてきていた。

もしかしたら今なお変わっていないのかもしれませんが、日本の実写映画は何をやっていたのか? もしかしたら、あのとき東宝の撮影所に出入りしていなければ、私も蘭癖(らんぺき)たちの仲間入りができていたかもしれません。

それでも、あの数年間は…みんなよりも映画に近づいているという、自分にしか伝わらない優越感…それはいずれ製作現場に身を投じて全く違う次元で打ちのめされることになるなんてつゆ知らぬ、おめでたいモラトリアムのひとときだったのです。

撮影所というところは毎日、ひっきりなしに撮影をしているイメージがあります。所内の目抜き通りには扮装をした俳優たちが行き交い、分解されたさまざまな国や時代の建築物の部品が、台車によって軽々と運ばれていくーー。そもそも、撮影の前には準備…ステージにセットを建てたり、機材を搬入したりして、撮影が終わればそれを全部バラして片付けて何もない状態に戻します。のちに自分の映画が作られるようになって愕然とするのは、撮影そのものの時間よりも撮影の前後のステージを占有する時間のほうが長い場合が多いということです。

もっと言えば、とてつもない時間をかけて作られる映画のほとんどは、わずか1か月の公開で終了するのです。儚い花火のような夢幻でございます。

だからなのか、あの頃は撮影時に行っても大体ひっそりと静まり返っていました。もうひとつ原因があるとすれば、本当にあの頃は映画の製作本数が激減して、あったとしても撮影所のステージに大きなセットを組む豪勢な撮影よりも、小規模なロケーションが主流になっていたのです。

ゆえに、撮影所はもっぱらコマーシャルにステージを貸し出していたのです。その頃のコマーシャルはバブル期直前の上向き景気に呼応した、虚構性を優先したイメージ作りが主流でしたから、大きなステージに大きなセットは必需品でした。それまでの映画づくりに欠かせなかった巨大なセットを作り、ライティングする技術は、そのままコマーシャルに転用され、多くの優秀な映画人があの時代のコマーシャルによって助けられたと聞きます。だから大きなステージですごい装置をたて込んでいるのを覗いても、だいたいはCMでした。

そんな撮影所で時折思い出したように大騒ぎをするのが特撮…特殊撮影班でした。