編集部から「藤井聡太が将棋界のすべてのタイトルを制覇する可能性を探れ」とのお題を与えられた。とはいえ、これまで7回のタイトル戦に出場して全勝を成し遂げている「最強棋士」に対して、「可能性は薄い」などとネガティブなことを書く者がいるだろうか。
いま、私は藤井のことを「最強棋士」と記した。あっさり書いたようだが、将棋記者としてはなかなか勇気がいることである。私は将棋界で恒常的に仕事をしており、盛り上がっている時だけにふらりと訪れるライターではない。将棋記者にとって、棋士の格付けは非常に繊細な問題なのだ。
だが藤井が史上最年少の五冠に輝いた2022年の王将戦七番勝負を見て、私は躊躇しなくなった。四冠の藤井と三冠の渡辺明の顔合わせは、竜王と名人の激突でもあった。この最高峰の決戦で、藤井は4連勝というストレート勝利を果たしたのだ。
終局直後に対局室に足を踏み入れると、かつて経験したことのない重苦しい空気に包まれていた。フラッシュインタビューで、あの頭脳明晰で歯切れのいい発言を常とする渡辺が言葉に詰まり、15秒の沈黙が2回もあった。1勝もできなかったことにそれだけ衝撃を受けていたのだ。棋界の頂点を決する戦いを制し、藤井は誰もが認める最強棋士となった。

藤井聡太、全タイトル制覇への最短シナリオとその可能性
2022年4月28日、藤井聡太がいよいよ今期の開幕戦を迎える。圧倒的強さでタイトルを獲得し続けて、将棋界のみならず世間も熱狂の渦に巻き込んだ将棋界のスーパースターは、全てのタイトルを獲得するというさらなる高みに挑む。夢の全タイトル制覇の可能性を将棋ライター・大川慎太郎氏が探る。
名人にもショックを与える「最強棋士・藤井聡太」
現在、藤井は竜王、王位、叡王、王将、棋聖の五冠を持つ。将棋界には全部で8つのタイトルがあり、残りは渡辺が持つ名人と棋王、そして永瀬拓矢が保持する王座だ。藤井が八冠を獲得するためには、自分の持つタイトルをすべて防衛しながら、上記の3つのタイトル戦で挑戦権を獲得し、さらには奪取しなくてはいけない。
名人戦は現在、渡辺と斎藤慎太郎八段の間で争われている。藤井は順位戦A級に昇級したばかりで、6月から9か月間にわたって9局を指し、そこで優勝すれば挑戦権を獲得できる。そして2023年4月から始まる名人戦七番勝負に勝てば、谷川浩司九段が持つ21歳2ヵ月という最年少名人記録を更新できる。
まずは挑戦権を獲得しなければ話にならないが、A級順位戦はリーグ戦なので実力通りに決着する可能性が高い。藤井とて負けることはあるが、1敗程度なら致命傷にならないのは大きい。藤井が挑戦権を得る可能性は極めて高いと言えるだろう。
鬼門は「王座戦」と「棋王戦」
問題はトーナメント戦の王座戦と棋王戦だ。王座戦は挑戦権獲得まで4勝、棋王戦は最低でも5勝が必要になる。いずれもトーナメント制で、1度負けたら終わりである(棋王戦は準決勝まで進めば敗者復活戦があるが)。
藤井の通算成績は265勝52敗で、勝率は8割3分6厘だ(2022年4月26日現在)。10回に1回から2回しか負けない計算だが(驚異的な高勝率だとあらためて感嘆する)、その負けが王座戦と棋王戦のどちらかに当てはまる可能性は否定できない。トーナメント戦の2つの棋戦で続けて挑戦権を獲得するのは藤井といえども容易ではないのだ。

棋王戦の本戦はまだ先だが、王座戦は4月下旬から開幕する。藤井の初戦の相手は、過去5局指して2勝3敗と負け越している大橋貴洸六段だ。もっとも5局中、4局は藤井が四段時代のもので、タイトル獲得後は対戦がない。それでも注目の一戦であることは疑いなく、まずは王座戦の突破が八冠ロードへの大きなキモとなるだろう。
王座戦は例年9月から10月、棋王戦は2月から3月だ。この2つのタイトルを藤井が奪取し、さらには名人戦の挑戦権も獲得すれば、2023年の4月から6月にかけて行われる名人戦が八冠を懸けた戦いとなる。普通なら妄想レベルの話だが、藤井に限ってはそれは当てはまらない。
先ほど、藤井に勝ち越している大橋の名前を出したが、藤井と4局指して3勝1敗という好成績を挙げているのが深浦康市九段だ。しかも直近の2局は藤井がタイトル獲得後なので価値が高い。藤井を「将棋星人」に見立てて、それに対する「地球代表」という愛称でファンの人気が高いが、最近タイトル戦に絡めているわけではない。それでは、なぜ藤井が深浦に負け越しているのかという疑問も生まれるだろうが、だからこそ将棋は面白い。藤井が絶対に勝つのなら、誰も将棋など見なくなるだろう。
これまで藤井はタイトル戦を7回戦っているが、相手の内訳は渡辺名人と豊島将之九段と3回ずつ、そして木村一基九段が1回だ。

画像/photo AC
特に渡辺、豊島とのシリーズは独自の世界観を作り上げていた。豊島とは極限までの没入と読み合い。渡辺とは質の高い準備と、それを強引に打ち破ろうとする中・終盤力のせめぎ合い。ベクトルが与えられた木片を使って勝敗を決めるだけのゲームが、なぜこれほど我々の心を強く揺さぶるのか。将棋の魅力を存分に伝えてくれたタイトル戦だった。
これからも両者は藤井と質の高い戦いを展開するだろうが、戦いが一段落した現状、別の棋士が藤井と熾烈な戦いを繰り広げる可能性を探ってみたい。
まずは出口若武六段だ。2019年4月にデビューした27歳の若手棋士は、4月下旬から始まる叡王戦の五番勝負の挑戦者になった。同じ関西所属で藤井とは5局の対戦があり、1勝4敗だ。ただ、この唯一の勝利が直近の対局なのは頼もしい。
出口は攻め将棋だ。その強烈な突破力で藤井の壁を貫くことができるか。出口はまだキャリアも浅く、それゆえの不安定さはもちろんあるのだが、何かが起こるのではないかという期待感もある。あまりに未知すぎるがゆえに想像力をかき立てられるのだ。
もう一人は永瀬拓矢王座だ。長らく将棋界は「四強」と呼ばれており、永瀬はその一角を形成していたが、藤井とのタイトル戦の機会はなかった。だが4月25日に行われた棋聖戦挑戦者決定戦で渡辺明名人に勝利し、ついに藤井と大舞台で相まみえることになった。
永瀬と藤井は以前から練習将棋を指す間柄で、永瀬が藤井に対して尊敬の念を寄せていることは有名である。対戦成績は藤井の7勝3敗だが、直近の2局は永瀬が制していることは好材料だ。挑戦を決めた後のインタビューで永瀬は「厳しい戦いになる」と率直に語っている。藤井を最もよく知るからこその言葉で、それゆえに小細工が通用しないこともよくわかっている。その瞬間で、最も勝てる確率が高い作戦を真正面から全力でぶつけてくることは間違いなく、そのストレート球にどれだけの上積みを乗せられるかの勝負だ。
誰が藤井を倒すのか――。
タイトル戦でいまだ負けなしの藤井だが、まだかろうじてその想像をすることはできる。そしてその余白こそが、我々を熱くするのだ。
藤井聡太が魅せる「将棋の可能性」
それにしてもいまの将棋ファンは幸福だと心から思う。
藤井が八冠を目指すこの瞬間を、リアルタイムで目撃できるのだから。藤井クラスの棋士はめったに出てこない。将棋界で過去、最高の実績を残してきた羽生善治が七冠を達成したのは1996年。四半世紀も前のことになる。今後、こういう状況が訪れるのはいつなのかはわからない。訪れない可能性だってゼロではない。
考察は終え、あとは盤面を凝視したい。叡王戦、棋聖戦ではどんな戦いが見られるのだろう。
「なんてすごいんだ」「なんて強いんだ」
藤井聡太は我々に感嘆をもたらすが、それだけではない。藤井将棋を集中して見ていると、自分の感覚が鋭敏になった気がすることがしばしばある。陶酔だけではなく、覚醒を促されるのだ。
将棋の可能性をブーストさせる棋士。それが藤井聡太なのである。
画像:共同通信