本当にそうだと思った

「おどろきのウクライナ」(橋爪大三郎、大澤真幸著)は2022年2月24日にロシアの侵攻によって引き起こされた「ウクライナ戦争」を中心として、巨視的に「現代」という時代を論じ、把握しようとする一つの試みだと思います。

バカみたいな感想ですが、本書を読み終わった時、「本当にそうだ」と思いました。

「ウクライナ戦争」を論じる時、僕たちはしばしばロシア、ウクライナ、NATO、アメリカという思考の枠組みを用いています。そして、多くの場合、せいぜい50年程度のスケール感で現状を把握しようとします。本書は、このような僕たちの思考フレームをまず、相対化してくれます。

例えば、国民国家(ネイション)という考え方。日本も含めた、いわゆる「西側」の人々が「国」という時に、無条件に想像してしまうものが「国民国家」だと本書は教えてくれます。国民国家は西ヨーロッパに固有の概念であって、広大なユーラシア大陸のスタンダードではないのです。

同じように、橋爪先生と大澤先生は、本書で様々な枠組みを提示してくれています。例えば、国民国家と帝国。旧大陸(ユーラシア)と新大陸(アメリカ)。20世紀と21世紀。自由主義的な資本主義と権威主義的な資本主義。

これらの専門的で難解な議論がお二人の軽妙な掛け合いの中で、とてもわかりやすく展開し、「ウクライナ戦争」の歴史的な意味を浮かび上がらせていきます。

具体的に言えば、ユーラシア大陸には、国民国家を前提とした西ヨーロッパの他にもロシア、イスラム、インド、中国という独自の歴史と価値観をもった帝国が存在することを説明し、新大陸で純粋培養された国民国家としてのアメリカ合衆国という理解が提示されます。

そして、民主主義と資本主義の関係が整理され、自由主義的な資本主義と権威主義的な資本主義が存在し、二つの資本主義のあり方の葛藤として、アメリカと中国の対立を捉えます。

また、アメリカが覇権を握った20世紀的な世界から、中国などの対抗勢力が現れる21世紀への歴史の転換点として「ウクライナ戦争」を捉えることができるとしています。

このような世界の見方が提示されることで、僕たちのあり方が、一つのあり方に過ぎないことが示され、僕たちのあり方やものの見方が相対化されていきます。

僕たちは、自由主義的な資本主義が機能する20世紀的な旧大陸の国民国家に生きています。そして、自由主義的であること、資本主義的であること、20世紀的であること、国民国家の一員であることを無条件に受け入れています。ですが、本書を読み進めていくことで、これがいろいろな組み合わせの中の一つにすぎないことが理解されてきます。

そして、この理解に基づけば、たとえロシアという暴れん坊を倒したとしても、僕たちの問題は解決しないことがわかってきます。

グローバルな包摂やお互いの歴史や伝統に対する理解に基づいた多様性の受容といった理念が、実は僕たちの現実を下支えしているにもかかわらず、僕たち自身がその理念を忘れてしまうことの危険性を教えてくれるからです。

橋爪先生は、はじめにの中でウクライナ戦争によって「自明だと考えていた前提が、あっさり崩れ去った」とおっしゃっています。僕もその通りだと思います。

ですから、僕たちは、今こそ自らの前提を相対化し、主体的に考える必要があるでしょう。僕はそのために、人文学の知を有効利用できると考えています。哲学、社会学、人類学、文学、そして、歴史学。これまで積み上げられてきた知にアクセスすることにより、自明だと考えていた前提があっさり崩れ去った荒野を、僕たちは歩いていくことができるのだと思います。

橋爪先生と大澤先生のコミュニケーションの中には、この人文学の知がこれでもかという濃度で詰め込まれており、知を用いて世界を解釈することの「凄み」があります。

世界を考えるための一つの助けとして、ぜひ、本書を読まれてみてはいかがでしょうか?

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