原発行政が作り出す虚構(フィクション)

原発行政を冷徹に見つめ続けてきたジャーナリストの日野行介氏と、ロシア研究者の尾松亮氏は奇しくもこの8月、それぞれ『原発再稼働 葬られた過酷事故の教訓』(集英社新書)と『廃炉とは何か ―もう一つの核廃絶に向けて』(岩波ブックレット)という新著を発刊した。国民を欺いて一方的に進められる原発行政の本質と、それがもたらす被害についてこの二人が語り合った。

日野 尾松さんの本を読んで、私は自分の本を読んでいるかのような感覚になりました。長いコロナ禍の中で、月1回とか、多いときは週1回も一緒に走っていましたので、その間ずっと話しているというのもあって、何か書き方が似てきたかのように感じました。

役所が意図的に作りだす「原発のフィクション」をいかに暴いていくか? 【日野行介×尾松亮】_01
日野行介(ひの・こうすけ)1975年生まれ。ジャーナリスト・作家。元毎日新聞記者。社会部や特別報道部で福島第一原発事故の被災者政策、原発再稼働をめぐる安全規制や避難計画の実相を暴く調査報道等に従事
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尾松 以前に共著(『フクシマ6年後 消されゆく被害 歪められたチェルノブイリ・データ』=人文書院)を書いたときに、私は論文とかを書いている研究者のスタイルで、明らかになったことを論理立てて説明していく書き方をしていたんですが、編集者から「日野さんみたいな形で、自分がどういう問題意識を持って、どういうプロセスを持って明らかにしていったのかということを、順序立てて書いてほしい」と依頼されました。私自身が日野さんの読者でもあったので、それ以降、読者に自分が明らかにしてきたプロセスをたどってもらうことで、問題意識を共有しながら進めていくということで、意識的にちょっとマネをしたというところはありますね。

――なぜ原発再稼働をするのか、また政府や東電は「廃炉には40年かかる」などと言っていますが、どこにその根拠があるのか疑問に思っていて、それを追及していきたいという共通の思いが、お二人にはあると感じました。

尾松 そうですね。政府の原発事故対応とか原発行政が民主主義を壊していくことの恐ろしさに対して、記者として、あるいは研究者として迫れるかという問題意識が我々にはあります。原発がなぜいけないのか、被曝による健康影響の有無とかの議論に関して否定するわけじゃないですけど、なかなか一対一関係で因果関係って証明できるものじゃないし、その問題設定ではむしろ「被害者が証明しないと補償されない」というエンドレスな水かけ論に持ち込まれてしまう。それよりも政府とか行政、加害企業の側の情報戦略みたいなものに、より恐ろしいものがあるんじゃないかという意識ですね。その仕組みを浮き彫りにすることが重要というか。

役所が意図的に作りだす「原発のフィクション」をいかに暴いていくか? 【日野行介×尾松亮】_02
尾松亮(おまつ・りょう)1978年生まれ。東京大学大学院人文社会研究科修士課程修了。モスクワ大学文学部大学院留学後、民間シンクタンクでロシア・北東アジアのエネルギー問題を調査。2019年より民間の専門家、ジャーナリストによる「廃炉制度研究会」主宰

日野 そうですね。役所がフィクションを作って、そのフィクションの土俵に連れ込んで闘っているように見えます。それによって「民主主義が壊されている」という問題意識が、私も尾松さんと一致しました。

再稼働にしても廃炉にしても、フィクションは大きくなればなるほど、これをフィクションと証明するのは難しいんです。ところが、フィクションに対して、いわゆる反対派の人々は「それはフィクションだ」と反論するだけで、延々と水かけ論をしているように感じました。

これは私が記者だからですが、「調査報道によって、意思決定過程を暴いていくことによって、役所が意図的にフィクションを作っていることを立証できるのではないか」と考えました。

今回、尾松さんの新著を読んで、「あっ、尾松さんもご自身のやり方で原発のフィクションを証明している」と感じて、少し変ですが、嬉しかったです。私は意思決定過程を暴くことによって、フィクションであることを証明しているんですけど、尾松さんは自身の語学能力と原子力の知識を駆使して、海外の文献などと比較することによって、日本の行政のフィクションぶりを浮き彫りにしていると感じたんです。