小泉訪朝はいかに実現したのか

北朝鮮拉致問題でつくられた「強い安倍」のイメージとその真相_1

北朝鮮が絶対に認めることのなかった日本人拉致を認めさせ、被害者5人と家族の帰国を実現し、拉致問題の存在を明るみに出した小泉訪朝は大きな成果を収めた。この歴史的な訪朝はどのようにして実現されたのだろうか。

外交の成果は、本交渉に先立つ水面下の交渉によって生まれる。司馬遼太郎はこう語っていた。

「つまり、外交の問題というのは、大体利害の対立ですから、大変にしのぎ難いものでしょう。19世紀であれば、戦力に訴えるということになった問題でも、今日では話しあいで、利害得失の折り合いをせねばならない。これは議場でやるより、事前において打ち合わせをして大体の結論を出すわけですね。本会議などは、セレモニーにしか過ぎないんで、事前の打ち合わせが1年かかるか、3カ月かかるか……」(「日本人よ〝侍〟に還れ」(萩原延壽との対談)『歴史を考える』)

司馬に倣えば、日朝交渉でいえば、第1回の小泉純一郎-金正日会談が「本会議」に当たり、「セレモニーにしか過ぎない」ことになる。

日本国民は、日朝首脳会談が行われることを、2002年8月30日午後の小泉純一郎総理の記者会見で、突然知らされた。日本がアメリカに小泉訪朝を知らせたのは、その3日前の8月27日だ。小泉総理がリチャード・アーミテージ米国国務副長官とハワード・ベーカー米国駐日大使に面談、そこで国交正常化交渉をはじめるため、9月17日に訪朝すると伝えた。

小泉総理は「絶対に情報が漏れないよう」外務省に指示した。韓国、中国、ロシアにも総理訪朝発表の前に竹内行夫外務事務次官が、駐日大使に事前説明をしている(竹内行夫『外交証言録』、船橋洋一『ザ・ペニンシュラ・クエスチョン』)。

会談が実現したきっかけは、外務省の田中均アジア大洋州局長が小泉総理にアジアで唯一残された北朝鮮との国交正常化実現を提案したことだ。

2001年10月、田中氏は小泉総理と1時間ほど面談、豊臣秀吉の朝鮮侵略、日清・日露の戦争で朝鮮半島が戦場になった歴史から説き、「朝鮮半島に平和をつくるため、北朝鮮と交渉したい」と打診した。小泉総理は「あなたと僕だけの秘密厳守で」と言ったそうだ。