性別による区別が厳格な韓国語の中で、男女分け隔てなく使われる済州島の方言「サムチュン」。ドラマ「私たちのブルース」で描かれた共同体の死生観とは
2022年の韓国ドラマ『私の解放日誌』と『私たちのブルース』は、韓国人にとって現在の韓国の自画像であるという。儒教の影響が強く、親族名称における男女の区別が厳格な韓国語の中で、男女の区別なく使われることが特異な、済州島の方言「サムチュン」。その言葉からは、済州島の人びとの考え方や死生観が見えてくる。
続・韓国カルチャー 描かれた「歴史」と社会の変化 #3
『私の解放日誌』と『私たちのブルース』
2022年4月9日、韓国で二つの週末ドラマが同時にスタートした。『私の解放日誌』(JTBC)と『私たちのブルース』(tvN)。両者とも今の韓国社会の矛盾や、家族や友人関係、人々の心の奥底に深く踏み込んでおり、「2022年の韓国の自画像である」と大きな話題となった。韓国人自身が「自画像」と言うのだから、韓国について深く知りたい人には、まさにオススメ作品である。日本でもNetflixで同時配信されたことで、ランキングの上位に並んでいた。
ただ「自画像」といってもいろいろある。笑っている顔を描くのか、泣いている顔を描くのか、あるいは怒っている顔を描くのか。韓国では放映当時から二つのドラマについてたくさんのレビューが書かれたが、二つの作品を比較評価したものなどは、そのコントラストに注目していた。「私」と「私たち」、「解放」と「再会」、「ソウル首都圏」と「済州島」。視聴者の年齢に関しても『私の解放日誌』が20〜30代の若い世代でブームとなったのに対し、『私たちのブルース』は上の世代まで広範な年齢層を巻き込んだ。
『私の解放日誌』はソウルまで通勤ギリギリの首都圏の田舎で暮らす若者が、家族や会社などのしがらみから自由になろうと奮闘する物語。一方、『私たちのブルース』は済州島を舞台に、傷ついた個人が地域のコミュニティの中で再生する物語である。
私自身は韓国のテレビで両方同時に見始めて、『私の解放日誌』にはすっかりはまってしまったが、『私たちのブルース』のほうは途中で挫折してしまった(理由は後ほど)。でも、しばらくして周囲の評価、特に日本の人たちの称賛ムードに押されて、視聴を再開することにした。今度はNetflixで最初からじっくり見直しながら、済州島の自然と人々が織りなす美しい風景に、どんどん引き込まれていった。

写真/shutterstock
パンデミック下の厳しい行動制限で鬱屈した社会的雰囲気の中、みんながマスクをして家にこもっていた時期に、よくもこんなに美しいドラマが作れたものだ。そして超豪華といわれたキャストの絶妙な配置。特にイ・ビョンホンという、当代のトップスターのすごさをあらためて実感することになった。
韓国人にも難しい済州島の言葉
途中で挫折した最大の理由は、「済州島言葉」である。韓国も日本と同じく、地方ごとに豊かな土地の言葉「方言」がある。たとえばドラマやバラエティなどによく登場するのは釜山などを含む慶尚道の言葉である。高低差の激しい抑揚は独特で、外国人でもわりと区別しやすい。さらに母音の数が少なく、子音も濃音が平音になったり、むしろ日本人にとっては標準語より習いやすいという人もいる。
ただテレビや映画に出てくる慶尚道言葉と違って、実社会では何を言っているのかわからずに困惑することがある。以前、馬山に行ったときに、タクシーの運転手さんの言葉が早口すぎて理解できず、韓国人の友だちですら「ここは韓国語が通じない」と嘆いていた。

OUR BLUES, from left: SHIN Min-a, LEE Byung-hun, (Season 1, premiered in South Korean on April 9, 2022). photo: ©tvN / Courtesy Everett Collection
しかし最難関は済州島の言葉である。こちらこそ「まるで外国語」と言われるほどで、地元の人同士の会話は韓国の人々でも理解できないと言われてきた。本土(済州島の人は陸地という)から離れた島の言葉は、独自の長い歴史の中で独自の単語や話法を維持してきた。もちろん、私たちが行けば標準語で話してくれる。標準韓国語と済州島言葉の関係は、標準日本語と琉球語の関係と似ているという人も多い。
前置きが長くなってしまったが、私がドラマの視聴に挫折したのは、この済州島言葉のせいだった。意味はわかるのだが、文字で書きおこせない。私は後の仕事のために、ドラマや映画を見ながら、印象に残った台詞をノートにメモ書きするのだが、『私たちのブルース』ではそれができなかった。若い世代の言葉は大丈夫なのだが、このドラマには高齢世代も登場する。なかでも海女のリーダー、チュニおばさん役のコ・ドゥシムは済州島出身であり、彼女の早口の台詞はもう完全にお手上げだった。
「戻して見たい」
思わず、テレビのリモコンをつかんだが、正規放送ではそれもかなわない。後から配信で見るしかないなと、オンタイムでの視聴を断念したのである。
コ・ドゥシムは長らく韓国で「国民のお母さん」とも呼ばれてきた大女優だ。1951年済州島生まれ、済州島女子高校を卒業後、MBCテレビのタレント公募に合格してデビューした。済州島が舞台の『私たちのブルース』で、コ・ドゥシムは唯一の済州島出身、ネイティブ・スピーカーである。
「他の俳優さんたちが方言に苦労した中で、そこは楽だったのではないですか?」
朝の情報番組でゲスト出演した彼女に、司会者はそんな質問をした。
「でもキャストの中で済州島出身者は私だけ、本気を出したら浮いてしまうから、そこはちょっと手加減したんです」
なるほどチュニおばさんは、あれでもやはり他の共演者のためにわかりやすく話していたのだ。
済州島のアイデンティティ、「サムチュン」とは?

写真/shutterstock
さて、このチュニおばさんは、ドラマの中では「チュニ・サムチュン」と呼ばれていた。この「サムチュン」という言葉が、ドラマの中では最も重要な済州島方言である。重要だから第1話と第2話の両方で、画面の脇に韓国語の字幕解説が出ていた。
「サムチュン(サムチョン):男女の区別なく年配者に対する、親しみをこめた呼称」
つまり女性なら○○おばさん、男性なら○○おじさんといったニュアンスだ。
わざわざ字幕解説が入っていたのは、標準韓国語で「サムチョン」は、父親の独身の兄弟や母親の兄弟、つまり「男性親族」を指す言葉だからだ。漢字で書けば「三寸」(参考までに、いとこは「四寸〈サチョン〉」)。ところが済州島では血縁関係も性別も関係なく、目上の人に対しては親しみをこめてみんな「サムチュン」と呼ぶのだという。
韓国は長い儒教的な伝統があり、親族名称における男女の区別は厳格である。親族以外の目上の人に対しても、男性なら「アジョシ」、女性なら「アジュンマ」と区別される。これは日本の「おじさん」と「おばさん」と似たようなニュアンスだ。実際の血縁関係がなくても親しみをこめて親族名称が使われることもあるが、その場合でも性別は超えない。ところが、済州島の「サムチュン」は、男女の区別なく使用される。

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これは一般の韓国人にとっても意外な使い方だし、性別にがんじがらめな言語習慣の中では、ものすごく新鮮な響きでもある。ドラマ『私たちのブルース』は、この「サムチュン」という言葉に済州島のアイデンティティを求めているようだ。血縁も性別も関係なく、サムチュンを敬い、やがて自分も敬われるサムチュンになる。ドラマはこの言葉を通して、共同体の死生観を再構築している。
もちろん韓国人全員が解説字幕を必要としたわけではない。すでに済州島のサムチュンの意味を知っている人も多いし、この言葉を聞いて『順伊サムチョン』という有名な小説を思い出した人もいる。ドラマの放映が始まった頃、オンライン上にはその小説やそこに登場する4・3事件(米軍政下の済州島で起きた民衆蜂起。徹底した武力鎮圧により島民に多くの犠牲者が出た)に関する書き込みがあり、「ああ、やはり」と思った。
この小説は日本でも『順伊おばさん』というタイトルで翻訳書が出ており、オールド韓国文学ファンの中には読んだ人も多いだろう。訳者は『火山島』などの著作で知られる金石範。97歳の今も、現役作家として済州島についての物語を書き続けている。
『順伊サムチョン』は韓国で1978年に単行本になった直後、出版停止になったことがあるという。斎藤真理子著『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス、2022年)によれば、当時はタブーとなっていた4・3事件にふれたことで、著者である玄基榮はKCIA(中央情報部)に引っ張られて拷問もされたという。
ドラマの本筋ではないのでここで止めておくが、「済州島を舞台にしたドラマ」といったときに、韓国人の中にはこうした現代史の事件を真っ先に想起する人もいる。そのことは日本でドラマを見る人たちも、知っておいたほうがいいと思っている。
ちなみにこの事件をテーマにしたドキュメンタリー映画の傑作が日本にある。2022年に公開された『スープとイデオロギー』は、ヤン・ヨンヒ監督自身と済州島出身の母親が、最晩年に明かされた家族の秘密をたどる旅である。金石範や前著でとりあげた金時鐘といった元老作家をはじめ、済州島をルーツにもつ「在日」の人々は日本の私たちの身近にもいて、ともすれば韓国とはまた違った角度から島の歴史や日本との関わりを紹介してくれている。
『私たちのブルース』にもさまざまな理由で家族を失った人々が登場する。済州島の暮らしがどれほど厳しかったか、それを表現するタッチは、驚くほど粗い。そのザラザラとした質感は意図的なものだろう。その一方で、空も海もブルーの色は明るい。済州島ブルーが広がっている。
文/伊東順子
写真/aflo shutterstock
続・韓国カルチャー 描かれた「歴史」と社会の変化
伊東 順子

2023年7月14日発売
1,078円(税込)
新書判/272ページ
978-4-08-721272-3
前著『韓国カルチャー 隣人の素顔と現在』に続く待望の第二弾。
本著では「歴史」に重点を置き、韓国社会の変化を考察する!
本書で取り上げる作品は『今、私たちの学校は…』『未成年裁判』『マイ・ディア・ミスター~私のおじさん~』『ブラザーフッド』『スウィング・キッズ』『リトル・フォレスト 春夏秋冬』『子猫をお願い』『シークレット・サンシャイン』『私たちのブルース』『シスターズ』『D.P.−脱走兵追跡官−』『猫たちのアパートメント』『はちどり』『別れる決心』など。
Netflix配信で世界的に人気となったドラマからカンヌ国際映画祭受賞作品まで、全25作品以上を掲載。
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