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戦前からのキャリア官僚である彼らのプライドをひどく傷つけた

内閣人事局の発足から9年、キャリア官僚にとって命の次に大事な人事をこの一組織に握られた結果、霞が関からは不平や不満の声が後を絶たない。内閣人事局については、これまで本書でたびたび触れてきた。本章では幹部人事の歴史や、各国の公務員制度と比較検証して、さらにその功罪についての考察を深めていきたい。

まずは戦後のキャリア人事の推移を駆け足で辿ってみる。
戦前のエリート官僚の代名詞である高等文官試験(高文)合格者の伝統は、戦後もほとんど改革されることなく引き継がれた。GHQによる公職追放や農地改革などは厳しく断行されたが、官僚制度改革は米ソ冷戦構造が深刻化するにつれ、抜本的な改革をためらわせる空気が支配的になったからだ。

そのため、キャリア制度は何ら法律に規定されることなく、慣例として戦後もしぶとく生き残った。国家公務員法では、資格任用を官僚人事に適用するため、採用試験だけでなく昇進の時にも競争試験を課すことを原則としていた。同法第三十七条(昇任の方法)は「職員の昇任は、その官職より下位の官職の在職者の間における競争試験によるものとする」(第一項)と規定、競争試験が選考の前提になっていたのだ。

実際、公務員法施行二年後の1950(昭和25)年に局長・審議官などの幹部を対象に実施されたが、戦前からのキャリア官僚である彼らのプライドをひどく傷つけたようで、「多忙な仕事の合い間に、こんな試験などやっていられるか」と不満が噴出し、一年実施しただけであとは沙汰止みとなってしまった。

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一度国家公務員試験に合格してしまえば、ほぼ永久就職

その結果、一度国家公務員試験に合格してしまえば、ほぼ永久就職の形で身分が保証された。しかも、試験の成績が入省後も一種の背番号のようについて回り、出世を左右する目安として使われた。といっても、成績に応じてその後の出世が明確に決まった旧海軍の「ハンモックナンバー」ほどではなかったが、各省庁の幹部の序列は試験によってほぼ決まっていたと言っても過言ではない。

国家公務員法上、人事権は大臣にありとされたが、実際はキャリアの仲間うちで人事が決められてきた。各省の中核機能である秘書課長―官房長―事務次官のラインが策定する人事構想を、時に大臣が一部の差し換えを命じたとしても、大方は構想通りに認められてきたのが実態であった。

戦後高まった民主化の掛け声とは裏腹に、キャリア制度はかつての高文官僚の伝統を後生大事に死守してきた歴史といえる。極論すれば、1886(明治19)年の各省官制創設以来、キャリア制度の根幹は何ら揺らぐことなく引き継がれてきたのが、日本という国のかたちでもあるのだ。