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ローカルな「公害問題」と
グローバルな「地球環境問題」 

私が高校生だった頃、日本では「公害」が大きな社会問題として浮上しました。いずれも産業廃棄物が原因とされ、イタイイタイ病(富山県)、水俣病(熊本県)、新潟水俣病(新潟県)、四日市ぜんそく(三重県)は「四大公害病」などと呼ばれたものです。

私の出身地である静岡県でも、1960年代から70年代前半にかけて、製紙工場の廃棄物による田子の浦のヘドロ公害が発生しました。若い人には馴染みの薄い言葉かもしれませんが、ヘドロは「屁泥」と書かれることもある日本語。

当時は『ゴジラ対ヘドラ』という映画もつくられたぐらい有名(?)でした。地元の身近な問題だったので、高校の同級生と「どうすれば公害をなくせるか」と真剣に話し合ったのをよく覚えています。

明治維新以来、欧米に追いつけ追い越せでやってきた日本にとっての真のSGDsとは? 地球環境問題と50〜60年代の日本で起きた公害問題、東大と京大の本質的な違い_1
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その友人と私は、どちらも公害問題に大きな影響を受けて、進学先を決めました。高校生の進路を左右するぐらい、深刻な問題だったわけです。ただし選んだ学部は別々で、彼は工学部、私は理学部。公害は工場などから出る産業廃棄物が原因なのですから、それを解決するために工学部を選んだ友人のほうが、自然な発想でしょう。しかし高校生の私は、こんなふうに考えました。

「問題が起きないようにいろいろ考え抜いて設計したはずの工場から公害が出てしまうのは、まだ人間が自然界の根本的な成り立ちを理解していないからに違いない」─それで、自然界のより基本的なところを探る理学部を選んだのです。

さて、自然界という大きなフィールドに興味を持ってはいたものの、当時の私は地球環境というグローバルな問題意識を持っていませんでした。理学の道に入るきっかけとなった公害は、自分の故郷で生じたローカルな問題です。

そもそも当時は「地球環境」という言葉が(存在はしたのかもしれませんが)使われていませんでした。言葉がないということは、そういう概念もないということです。いまの時代に企業が産業廃棄物を垂れ流せば、誰でもそれを環境汚染として受け止めるでしょう。しかし当時は誰も、公害をグローバルな「環境問題」という枠組みでは考えていなかったのです。

その概念が世界に広まったのは、1988年のこととされています。その年に、NASA(米航空宇宙局)の科学者ジェームズ・ハンセンが、米議会で地球温暖化に関する研究について証言しました。のちにハンセンは「地球温暖化問題の父」とも呼ばれるようになりましたが、「地球環境」という言葉が広まったのは、このハンセン証言がきっかけです。

東京大学名誉教授の木村龍治先生の調査によれば、朝日新聞に「地球環境」という言葉が登場する回数は、この年を境に、ほぼゼロ回から年間500回程度にまで一気に跳ね上がっていました。この頃から、「グローバルな環境問題」が世界中で注目されるようになったわけです。