教養というヴェールをまとった雑学

ここ数年で教養という言葉ほど地に落ちた言葉もないと感じています。ありとあらゆる書籍タイトルに教養という言葉が使われていることに違和感を感じますし、極めつけとして「1日1ページ5分読むだけで1年後、世界基準の知性が身につく!」という売り文句で売られている書籍も存在します。

「教養あるビジネスパーソン」は本当に教養があるのか? 「教養としての〇〇」が氾濫する現代人の甘い目論見_1
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それで身につくのは知性ではなく雑学ではないのかという皮肉を言いたくなる気持ちはさておき、ここまでバズワードとなった教養とは何かということを考えてみたいと思います。

個人的には、教養とは「教養を手にする」という目的では手に入らないものであり、ただただ知への好奇心から学習を追求した結果、死ぬまでに誰にも話さないかもしれない知識の集合体として、教養というものが手に入るのだと思っています。

そう考えると、多くの人がほしがっているのは教養ではなく、誰かに話したくなる「教養を装った雑学」だと言えるのではないでしょうか。

教養の養分となる知識は、要約動画やタイパという効率を優先する時代において最も不要な存在です。これらの知識は、要約する際にはまず始めにカットされる情報であり、Amazonのレビューなどでは「文章が冗長」と書かれる箇所です。

しかし、この“教養”というバズワードを取り巻く環境で皮肉なのは、本を読む時間がもったいないと感じ、要約動画を見たり、タイパを求めたりする人たちこそが教養をほしがっているということです。