東京・神保町の地下鉄出口のすぐ横にある「さぼうる」は、その独特な雰囲気で街のランドマークにもなっている。創業は1955年。古くからの常連客に愛される店だが、メディアでもよく取り上げられ、観光で訪れる一見客の来訪も多い。
ナポリタンが名物でランチ時が満員なのは当然、閑散としがちな時間帯でも活気がある。雑多だが快適で居心地のいい、秘密基地のような店だ。しかし、今年に入ってマスターだった鈴木文雄さんの訃報が伝えられた。
個人の趣味を反映し、それが愛されている店ほど事業継承は難しい。さぼうるの場合は、マスターが不在がちとなったここ数年も変わりなく営業してきた中で、後継者である店長・伊藤雅史さんの店へと少しずつ移行してきたようだ。

神保町の名喫茶「さぼうる」の事業継承物語。時代とともに変わっていくこと、守り続けること
古書店が軒を連ねる東京・神保町の老舗喫茶店「さぼうる」。常連に愛される一方で遠方からわざわざやってくるお客も多く、土日ともなれば行列のできる名店だ。昨年末、創業から60年もの間、店を切り盛りしてきたマスター、鈴木文雄さんの訃報が伝えられた。濃縮された個性が愛される老舗の事業継承は難しい。移り変わる時代の中、店をどう続けていくのか。後継者となった伊藤雅史さんに話を聞いた。
マスターならこうした、と考えながら

さぼうる店内の一角。マスターが集めたり、お客が持ってきたりした装飾品がずらりと並ぶ
「会社を継ぐのは権利関係や手続きもありますから簡単にはいかないですが、お店は自然に引継ぎました。マスターも何かに固執する人ではなかったので」
店を共に切り盛りする妻の智恵さんとふたりで出迎えてくれた伊藤さんはあっさりと言った。パーカー姿の伊藤さんに、さぼうるといえばバーテンダー風の白シャツにベストのイメージがあったがと尋ねてみると、「本当はパーカーなんて絶対にマスターに怒られる格好ですが、今は少しラクをさせてもらっています」と笑った。

伊藤雅史さんと智恵さん。取材は3月の休業中に行ったが撮影のためにランプを点灯してもらうと、営業中だと思ったお客がひっきりなしにやってきた
「創業からすぐ経営者が入れ替わっていて、鈴木は正確には3代目、僕は4代目なんです。でも鈴木が60年以上やっていましたし、後を継いでもマスターは鈴木で、僕は店長かな。長くやってきたから古いだけで、特別な店じゃないんですよ。モノが多いのも、いただきものをなんでも置いていったからなんです」
しかし、マスターの部屋のような独特の空間ができ上がっているのは、この手の純喫茶の大きな魅力だ。さぼうるは中2階と半地下に座席を配した立体的な構造で、壁を埋める来訪者の落書きも独特な魅力を醸し出している。
店内の至るところに民芸品などの装飾品が置かれているが、特にマスターのお気に入りが並ぶ窓際だけは、マスター自身が毎朝並べ直していたという。
「散らかっているのはもちろんダメだけれど、整理されすぎていても好みじゃないんですね。モノが新しく加わるとき、ここ10年くらいはマスターとスタッフで遊びながら配置を決めていたように思います。外のカラスウリもお客さんからいただいたもので、『伊藤くんちょっと置いてみて』なんて言われて置いてみると『いや、それは(置き方が)面白くないね』とか(笑)。今も妻と、マスターならどう置くかなって話しながら決めています」


店の壁にはたくさんの落書き。「相合傘」が多い

窓際にはマスターが生前気に入っていた置物が並ぶ
「学校」「家族」と形容される職場
さぼうるで働いて16年になる伊藤さんだが、後継者に直接指名されたことはない。しかし、子どもがいない鈴木さんからは後継ぎだと認識されていたようだ。
「マスターは『智恵さんがいるから伊藤くんもやれるんじゃない』とよく行く飲み屋さんでは言っていたらしい(笑)。夫婦でさぼうるで働いていたのは、後にも先にも自分たちだけですし」
伊藤さんがさぼうるでアルバイトを始めたのは大学時代。ナポリタンを食べて感銘を受け、このナポリタンを作りたい、とその場で店員にアルバイト希望を申し入れたそうだ。
「そのときはマスターが銭湯に行っていると言われて、それなら待ちますと。しばらく待っていたらサンダル履きに桶を持ったマスターが『君かい?』なんて言いながら現れました」

伊藤さんがマスターが銭湯から帰るのを待っていた席
「僕はキッチン希望でしたがホールの人数が足りていなかったみたいで、相当悩んだらしいんです。結局、ナポリタンもそのうち作らせてやるからまずはホールからと丸め込まれて(笑)」
接客経験もなく、バイトを始めて1、2カ月は毎日やめようと思っていた。だが、今日やめると言おう、明日言おう、と思っているうちに楽しくなってしまったそうだ。
「一緒に働いていた先輩や仲間が、厳しいけれど優しくて。そういう経験が初めてだったから、ここまで来てしまった気がしますね。さぼうるは学校みたいなものだってみんなよく言っていました。スタッフがみんなマスターとお店に愛着があって、チームワークもよくて、本当に学校みたいでした。土地柄いろんなお客さんとお話することも勉強になりました」
やがて同僚だった智恵さんと結婚し、社員になったのが12年前。学校のようだったさぼうるで出会ってパートナーとなったスタッフは多い。現在、伊勢志摩でサンパチ珈琲焙煎所を経営するオーナー夫妻もふたりとも、伊藤さんがさぼうるで世話になった先輩だ。
「お手洗いの掃除から教えてもらった先輩ですね。当時は付き合っているとは知らなかったんですが(笑)。地方でお店を出されたり、作家さんになった方もいますし、さぼうるDNAが地方に散らばっていっています」
かつて働いた“卒業生”たちは、子どもができると子ども好きのマスターに見せに来ていた。伊藤さん夫妻の子どもたちもマスターに可愛がられ、家族同然に付き合っていたそうだ。


マスターと伊藤さん家族。息子が誕生したことを大いに喜んでくれた
高齢のマスターの不在が多くなってからは自然と店長と呼ばれ出した伊藤さんだが、後継になると自覚したのはここ2、3年のことだった。
「嫌でしたよ、もとを正せばキッチン志望ですし(笑)。でも俺がやらないとこの大事な場所がなくなってしまうんだなと」
お客にとってそうであるのと同様、働く側にとっても大事な場所であるさぼうる。遠く移住した元スタッフがふと帰れる、本当に学校のような場所なのだ。続けてほしいというOB・OGからの声も多い。
「どこから出ているのかわからないけど、ここにしかない空気があります。誰もいない開店前の店内とか、本当にいいもんです。これからいらしてくださるお客さんや将来のスタッフにも、同じ空気を味わっていただきたい」
若いスタッフにも喜ばれる老舗感
マスターから教わったことは何かと尋ねると、優しさと厳しさなのだと伊藤さんは言う。
「晩年はよく夢を売っているんだということを言っていました。子どもが好きな人なんですけどね、お子さんがいらっしゃると帰りにそっとバナナをお土産に持たせたり。もちろん商売なんですけど、本気で優しくあろうとしていた」
その一方で、店に合わないお客は来なくていいという厳しさもあった。店の中では誰しもが平等でいられるような気配りは、伊藤さんも欠かさない。
「うるさすぎるとか、スタッフに理不尽な態度をとるお客さんには注意することもあります。でも、注意したお客さんって意外とまた来てくれますね。フォローが上手なスタッフが声掛けしてくれるからかもしれません。そんな風に、向いている役割ってありますよね。お酒を持っていくのに向いているスタッフ、爽やかなモーニングのほうが合うスタッフっていう感じで。マスターはそういうバランスを大事にしていたと思います」
かといって何もかもをそのまま踏襲しているわけでもない。例えば、マスターが嫌がったバイトの掛け持ちを伊藤さんは認めている。アルバイトは以前より若い世代の応募が増え、掛け持ちを希望する人も多いからだ。
「今では掛け持ちも普通だし、本人にとってはそれがリスクヘッジでもあるし止められないですよね。ただ、案外昔ながらのやり方のほうが新人さんにも老舗っぽいと喜ばれる場合もあります(笑)。あまりフラットに今っぽくやってもつまらないみたい」
働き方も変わる中での常連客への対応は、主に智恵さんがフォローする。
「あのお客さんはここの席とか、どの新聞を読むとかね。神保町って意外と女将さん、ママさんが強いお店が多いですね。男性だけだと店を守るには厳しさが足りないのかもしれません。清潔面やスタッフのケアもバランスが取れます」

マスターとの思い出を振り返る伊藤さん
新しい時代に、変わること、変わらないこと
時代に合わせる部分もある中で、変えないものとは何だろうか。
「常連さんを大事にする。マスターが美味しいと思って出していたものは変えない。でも、マスターは変えないだけじゃなかったんですよね。遠方からのお客さんには必ず話しかけていい席に通すし、神保町に新しいお店ができたと聞けばすぐ偵察に行ったり、新しいものに常に興味がありました」
看板メニューの一つのいちごジュースも、最初はマスターが他店をまねて取り入れたものだそう。

日本の三大祭のひとつ、神田明神祭でのマスターと伊藤さんら
「自分たちがいいと思っているものだけで完結してしまうとつまらないですから、僕もプラスの提案はしていきたい。でも、新しく何かやろうと思うと意外ともうマスターがやっていたりするんです。店をイベントスペースとして貸し出してみようかと考えると、マスターがもう検討していたりして」
コーヒー豆やグッズの販売など、少しずつ伊藤さんの色も出始めたさぼうる。コロナと人手不足を理由にしばらく休業していたが、4月5日から営業再開し、待ちわびていたファンが行列を作った。
「本来は行列ができるような店ではないですから、常連さんも新規のお客さんも大事にしながら、小ぢんまりやっていくのが理想です。最近若いお客さんも増えましたが、またいつか思い出して再び訪れたくなるような場所でありたいですね」

最近はカウンターに立つことがほとんど。「結局ナポリタンはあまりつくっていませんね」
謙虚に語る伊藤さんだが、「あ、それと」と顔をほころばせた。
「また夜も盛り上げたいですね。うちはお酒もつまみも出すし、夜は騒がしい店でした。飲んでいると人が増えてくるから気づけば4人席に6人も7人も集まっていたりして。コロナの影響は免れないでしょうが、あの熱気をまた感じていただきたいですね」
記憶に残るいつも変わらない老舗。でも、常に少しずつ新しく変化している。そんな風にしてさぼうるは引き継がれ、今度は伊藤さん夫妻の店になっていくのだろう。


店内に飾られているマスターの写真
取材・文/宿無の翁
撮影/近藤みどり
編集/一ノ瀬 伸

さぼうる
住所:東京都千代田区神田神保町1-11
電話:03-3291-8404
※営業時間や休みはインスタグラムで確認を。
@sabor_jimbocho