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技術・家庭科が男女別の教科だったのは「時代の要請」

——現在、男女共通で学ぶ中学校の技術・家庭科は、かつて男子が技術、女子が家庭科を学んでいたと聞いています。いつから男女別の教科になったのでしょうか。

明らかに男女が違う内容を学ぶようになったのは、今から65年前、高度経済成長期の頃からです。1958年文部省(当時)告示の学習指導要領(各学校で教育課程を編成する際の基準。約10年ごとに改訂)に合わせ、それまでの「職業・家庭科」の代わりに新設された教科として中学校に「技術・家庭科」が誕生しました。

この改訂によって、中学校では男子は社会で役立つような「技術の内容」を、女子は家庭の担い手となることを想定した「家庭」の内容を学習するようになりました。ちなみに高校の家庭科は、1960年改訂の学習指導要領から女子のみ必修科目となりました。

この時代は、日本は製造業などの第二次産業で発展しつつありました。1957年にソビエト(当時)が人工衛星の打ち上げに成功、アメリカとの間で科学技術競争が過熱していた時期です。日本も世界に追いつけ追い越せと、他国と肩を並べようとしていました。日本経営者団体連盟(日経連)は科学技術の発展に資する教育を要望する意見書を出し、産業技術に関する教育の充実を求めたのです。

経済発展を支える労働者として期待されていたのが、中学校を卒業して地方から集団就職で都会にやってきて働き始める若者たちでした。以前ヒットした映画『Always三丁目の夕日』の登場人物のようですね。

男女共修化までの長い道のり…かつての「男女別の技術・家庭科」に見え隠れする政財界の思惑と性別役割分業に基づく日本社会_1
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しかし家庭科は、意外に思われるかもしれませんが、戦後から「男女が共に学ぶ」という理念があったのです。

——そうなのですか? ぜひその変遷を教えてください。

日本では第二次世界大戦まで男女別学であり、封建的な男尊女卑の考え方が一般的でした。しかし戦後のアメリカのGHQ主導で教育改革が実施され、「男女平等」の概念が反映されるようになります。

GHQは「女性にも高等教育を受けさせるべきだ」と主張。教育使節団が派遣され、学校教育における男女の教育の機会均等と共学を推進する改革が進められました。

そして1947年には日本で初めての学習指導要領が発表されたのです。当時は、教科ごとで小学校から高校までを通した教科の目的・内容などが記載されていました。