アイヌ文化は現代社会へのヒントが詰まっている
――アイヌの伝統的な世界観についてもお聞きしたいです。『ゴールデンカムイ』の一冊目のガイドブック(『アイヌ文化から読み解く「ゴールデンカムイ」』)で、中川先生はアイヌの世界観の核となる「カムイ」という語について、しいて訳すのなら「環境」だと説かれていました。それまでは「神」と訳されるものと理解していたので、読んで目から鱗が落ちるようでした。新著の第一章でも、物語のさまざまな場面に即してさらに踏み込んだ解説をされています。
一方で、この数年の間に日本社会では「持続可能性」ということがしきりに言われ、環境へ配慮する意識は高まってきています。アイヌの伝統的な知恵がヒントになることもあるのではないかと思うのですが、いかがでしょう。
注意しなければならないのは、一口に環境への配慮と言っても、実践のあり方によってはアイヌの伝統文化と真っ向からぶつかるということです。アイヌの文化は動物を飼って、もしくは狩って、殺して、皮や肉を得て利用する文化です。一方でいま、動物の毛皮をファッションとして身につけること自体を否定する傾向がありますよね。あるいは、動物性たんぱく質を一切摂らないヴィーガンなど、実践する人からすればアイヌ文化はとても受け入れられないでしょう。
ですから非常に難しい問題ですが、本質的な部分を継げば現代社会にも参考になるんじゃないかと思うことはあります。例えば原作漫画にも登場するイオマンテ(熊送り)は、子熊を飼って、育てて、殺して、その魂を「カムイの世界」へと送り返す儀礼です。要するに、我々に肉やいろいろなものをもたらしてくれる存在に対する――それを殺すことになるわけですが――感謝の儀礼です。
じゃあこのイオマンテを現代によみがえらせるとしたら、私が思うのは、真っ先に、牛と豚と鶏に対してやらなくてはならないということ。牛とか豚は自分たちに食べ物を提供してくれるありがたいものなんだから、感謝の意をあらわすお祭りをやらなくてはならない、と。そして、それらを私たちが食べられるようにしてくれている、屠畜業の人たちにも感謝しなくてはならない。
命の消費を、消費の本質を考える時に、アイヌの伝統的な世界観は参考になるんじゃないかなと思います。
――アイヌ以外の日本の民間信仰にも通じるものがあるのではないでしょうか。今でも地方に行くと「畜魂碑」を見かけることがあります。あれも家畜に対する感謝や供養の気持ちで建てるわけでして。
それもあると思いますし、あとは「針供養」(注:役目を終えた針に感謝を込めて、供養すること)という習慣がありますね。ああいった信仰が、アイヌの考え方にぴったりと一致します。この本でも説明したように、自然界の動植物だけではなく、道具に至るまで、それらには魂があって自分たちの力になってくれるカムイなのだ、という考え方がアイヌ的な精神なので。
だから、「アイヌは自然と共に生きる民族」といった説明は好ましくない。と言うのも「自然と共に生きる」=「現代社会では生活できない文化」ととらえられてしまい、アイヌの可能性を狭めてしまうから。そうじゃないんです。自然だけがカムイではない、小さな道具に至るまで、あらゆるものがカムイである、という世界観です。カムイであるとはどういう意味かと言うと、人間と同じような存在として扱うということです。
――だからこそ感謝もするし、供養もするということですね。
はい。ありとあらゆるものとの共存なのであって、自然だけではない。それなら現代社会の中でも、アイヌの精神世界を基盤にした生活は十分に実現できるでしょう。そういう風にアイヌに対する見方を変えていく必要があるんじゃないかなと思っています。
取材・文/前川仁之 撮影/内藤サトル
映画『ゴールデンカムイ』はTOHOシネマズほか大ヒット公開中!
舞台は気高き北の大地・北海道。時代は、激動の明治末期。「不死身の杉元」と異名を付けられた日露戦争の英雄・杉元佐一は、ある目的のために大金を手に入れるべく、北海道で砂金採りに明け暮れていた。そこで杉元は、アイヌ民族から強奪された莫大な金塊の存在を知る。金塊を奪った男「のっぺら坊」は、捕まる直前に金塊をとある場所に隠し、そのありかを記した刺青を24人の囚人の身体に彫り、彼らを脱獄させた。囚人の刺青は 24 人全員で一つの暗号になるという。そんな折、野生のヒグマの襲撃を受けた杉元を、ひとりのアイヌの少女が救う。「アシㇼパ」という名の少女は、金塊を奪った男に父親を殺されていた。金塊を追う杉元と、父の仇を討ちたいアシㇼパは、行動を共にすることとなるが…。